<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"><title>霧の丘　Colline de brouillard</title><link href="https://hitomi-izuno.themedia.jp"></link><subtitle>写真家・伊豆野 眸の公式サイト</subtitle><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp</id><author><name>伊豆野　眸</name></author><updated>2018-04-30T15:39:52+00:00</updated><rights>伊豆野　眸</rights><entry><title><![CDATA[うしくんは偉い]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/4118350/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/38f49e7db52154291122d2a1512d686c_af32ff942901421cf7678ba4f84d0a55.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/4118350</id><summary><![CDATA[　吾輩はうしくんである。今日の吾輩はたいへんに偉い。どうして偉いのかというと、主人がいつものように酢の匂いをさせてバシャバシャやり始めたので、いつも以上におとなしくして居るのだ。　これは野生動物である吾輩たちにとって、たいへんに殊勝な態度である。日々本能のままに暮らしている吾輩は腹が空けば餌皿に顔をつっこむし、眠くなればなるべくフワフワとしている場所を選んで伸びて眠る（寒いことがないので、丸まらなくてよいのだ）。そういう生活をしている吾輩が、いつもの酢の匂いを嗅いだだけで行動を一部自粛しているのだから、理性をもった人間が同じことをする以上にこの賢さを褒めてもらいたいのである。　とは言ったものの、吾輩もなんの経験もなしにこの殊勝な心がけが出来たのではない。記憶にすりこまれた恐ろしい経験が、生きるための身のこなしを導くのである。生きるための身のこなし、つまり酢の匂いがしている間は重力検査およびその他の派手な行動を控えるということだ。これをやらかして以前主人の怒号を聞いた。あの時は今のように気を引き締めておらず、全体に緩んだ心持ちで炊事場に立つ主人の気を引こうとしていた。しかし吾輩は恐ろしいことに関してはよく神経が動く。あれ以来、酢の匂いを感知すれば主人から少し距離を置いた風呂場の陰などからそっと見守ることにしている。　今日は酢の匂いの中で主人の細君が寝ていたので、その寝顔を定期的に見守り、細君が途中で目を覚ませばこれも遠巻きに視線を合わせて吾輩の存在を無音の内にアピールするなどした。どれもニャとも鳴かずに遂行したのだから頭をなでてもらっても余るくらいだ。細君は主人の横をすり抜けてひとりで入浴を始めた。吾輩は偉いので、細君が無事入浴を済ませて出てくるのを風呂場の戸の前でおとなしく注意深く待った。しばらくして細君が湯気とともに顔を出したので、少々気が緩み、普段は滅多にやらないが細君の部屋履きの端を噛み、前脚と後ろ脚で固定したり蹴ったりしてごまかした。細君は吾輩の慎重にしているのを感じ取ったらしい。吾輩を「ばっちいからね」と制しつつ、吹き出している。　この家の中で番付をするなら吾輩が一番だと信じて疑わないのであるが、時として、酢の匂いがする時だけ、吾輩はどうしても恐怖から身をひるがえすべく、主人より格下のように神経をはりめぐらせてしまう。そのことが細君に筒抜けで少々恥ずかしく感じても吾輩は慎重に酢の匂いが過ぎ去るのを待つほかない。その匂いは、野良猫がやむを得ず雨をしのぐと同じ、避けて通れぬこの家の畏怖である。]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2018-04-30T15:39:52+00:00</published><updated>2018-04-30T15:46:07+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　吾輩はうしくんである。今日の吾輩はたいへんに偉い。どうして偉いのかというと、主人がいつものように酢の匂いをさせてバシャバシャやり始めたので、いつも以上におとなしくして居るのだ。</p><p>　これは野生動物である吾輩たちにとって、たいへんに殊勝な態度である。日々本能のままに暮らしている吾輩は腹が空けば餌皿に顔をつっこむし、眠くなればなるべくフワフワとしている場所を選んで伸びて眠る（寒いことがないので、丸まらなくてよいのだ）。そういう生活をしている吾輩が、いつもの酢の匂いを嗅いだだけで行動を一部自粛しているのだから、理性をもった人間が同じことをする以上にこの賢さを褒めてもらいたいのである。</p><p>　とは言ったものの、吾輩もなんの経験もなしにこの殊勝な心がけが出来たのではない。記憶にすりこまれた恐ろしい経験が、生きるための身のこなしを導くのである。生きるための身のこなし、つまり酢の匂いがしている間は重力検査およびその他の派手な行動を控えるということだ。これをやらかして以前主人の怒号を聞いた。あの時は今のように気を引き締めておらず、全体に緩んだ心持ちで炊事場に立つ主人の気を引こうとしていた。しかし吾輩は恐ろしいことに関してはよく神経が動く。あれ以来、酢の匂いを感知すれば主人から少し距離を置いた風呂場の陰などからそっと見守ることにしている。</p><p>　今日は酢の匂いの中で主人の細君が寝ていたので、その寝顔を定期的に見守り、細君が途中で目を覚ませばこれも遠巻きに視線を合わせて吾輩の存在を無音の内にアピールするなどした。どれもニャとも鳴かずに遂行したのだから頭をなでてもらっても余るくらいだ。細君は主人の横をすり抜けてひとりで入浴を始めた。吾輩は偉いので、細君が無事入浴を済ませて出てくるのを風呂場の戸の前でおとなしく注意深く待った。しばらくして細君が湯気とともに顔を出したので、少々気が緩み、普段は滅多にやらないが細君の部屋履きの端を噛み、前脚と後ろ脚で固定したり蹴ったりしてごまかした。細君は吾輩の慎重にしているのを感じ取ったらしい。吾輩を「ばっちいからね」と制しつつ、吹き出している。</p><p>　この家の中で番付をするなら吾輩が一番だと信じて疑わないのであるが、時として、酢の匂いがする時だけ、吾輩はどうしても恐怖から身をひるがえすべく、主人より格下のように神経をはりめぐらせてしまう。そのことが細君に筒抜けで少々恥ずかしく感じても吾輩は慎重に酢の匂いが過ぎ去るのを待つほかない。その匂いは、野良猫がやむを得ず雨をしのぐと同じ、避けて通れぬこの家の畏怖である。</p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[うしくんの重力検査]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2294058/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/2523dc49476629e14ad6cc37fab45b35_d9cdeb6d3439cf97a24f2f1149955ffc.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2294058</id><summary><![CDATA[　吾輩はうしくんである。吾輩の日常は他から見れば呑気そのものであろうが、実際のところは、何かとするべき事が多く忙しい。これは吾輩の主人でさえ疑いの眼を向ける所であるが、高尚な吾輩の仕事は主人には一生わかるまい。　日々の仕事は、食う寝る遊ぶを基軸に、主人の細君がばたばたしている洗濯物に異常がないか調べる「洗濯物検査」や、主人の食っている物が適切かどうか調べる「食卓検査」など多岐に渡る。たいていはさほど力を使わずに済むものばかりだが、その中のひとつ「重力検査」にはしばしば時間と労力がかかる。これは高さのある場所から物を床へ落としてみることで、かのアイザック・ニュートン氏が閃いた重力が正しく作用しているか調べる大切な検査である。重力がある日突然なくなってしまっては一大事なので、不定期に吾輩の思い立った時にこの検査は行われる。床へ落とす物は主人のペン、携帯電話、手帳、手荒れ用軟膏の容れ物など、重たいものは吾輩の肉球でもって何度か押し出してようやく机からすべり落とすのでなかなか難儀である。たまに主人の飲みかけのコップを落とすと、床一面に中身がぶちまかれ、それで主人に叱責されることもあるが、重力の有無を調べるにあたって拘泥する必要のない塵ほどの犠牲ではないかと不思議に思う。　ある日思い立った我輩は件の重力検査を始めた。その時はちょうど主人が炊事場でいつもの酢の匂いを撒き散らしてバシャバシャやっている所であった。検査中は邪魔がないほうが有り難いのでこれ幸いと机へ跳び上がり、置かれている物を確認した。それは普段目にしない、銀色の大きな筒型の容れ物であった。黒い蓋がついており、肉球で触れると少々重たい物だとわかった。前足で払うように机上をすべらせると、容れ物は少しずつ動いて、とうとう机のふちまで移動し、床へ向けてゆっくりその体を傾けた。瞬間、事態に気づいた主人が聞いたことも無いような悲鳴をあげた。それはまるで我が子が谷へ突き落とされるのを今知ったかのような絶叫であった。派手な音を立てて容れ物が落ちた。主人は飛んできて手を差し出したようだったが、無残に蓋は取れて、中身が露出していた。驚いた細君が何事かと駆けつけたら、「ぜんぶ感光してしまってパァだ」と怒気のにじむ声で主人が顛末を話した。吾輩はコップをぶちまけた時のごとく叱責の手が伸びてくることを予期し、とっさに頭を低くして身構えたが、意外にも主人はさっと冷静に戻り、容れ物の中身を何の感情も込めない手つきで処分しただけだった。日に晒された中身は、黒く細長い紙のような物だった。　吾輩の主人は炊事場に立ってバシャバシャやるとき、並々ならぬ気配で居る。谷の底で死んだ我が子をこれ以上悲しんでも生き返らない事を知って冷淡に屑入れへ捨てるほど、鬼の精神で酢の匂いに向き合っている。吾輩は主人の手の中で何が出来上がっているのか知らない。それでも野生の吾輩は、同じく主人の人間に珍しい野生を見ただけで、酢の匂いのしている内は重力検査は止しておこうと思った。]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2017-04-22T08:21:27+00:00</published><updated>2017-04-22T17:48:28+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　吾輩はうしくんである。吾輩の日常は他から見れば呑気そのものであろうが、実際のところは、何かとするべき事が多く忙しい。これは吾輩の主人でさえ疑いの眼を向ける所であるが、高尚な吾輩の仕事は主人には一生わかるまい。</p><p>　日々の仕事は、食う寝る遊ぶを基軸に、主人の細君がばたばたしている洗濯物に異常がないか調べる「洗濯物検査」や、主人の食っている物が適切かどうか調べる「食卓検査」など多岐に渡る。たいていはさほど力を使わずに済むものばかりだが、その中のひとつ「重力検査」にはしばしば時間と労力がかかる。これは高さのある場所から物を床へ落としてみることで、かのアイザック・ニュートン氏が閃いた重力が正しく作用しているか調べる大切な検査である。重力がある日突然なくなってしまっては一大事なので、不定期に吾輩の思い立った時にこの検査は行われる。床へ落とす物は主人のペン、携帯電話、手帳、手荒れ用軟膏の容れ物など、重たいものは吾輩の肉球でもって何度か押し出してようやく机からすべり落とすのでなかなか難儀である。たまに主人の飲みかけのコップを落とすと、床一面に中身がぶちまかれ、それで主人に叱責されることもあるが、重力の有無を調べるにあたって拘泥する必要のない塵ほどの犠牲ではないかと不思議に思う。</p><p>　ある日思い立った我輩は件の重力検査を始めた。その時はちょうど主人が炊事場でいつもの酢の匂いを撒き散らしてバシャバシャやっている所であった。検査中は邪魔がないほうが有り難いのでこれ幸いと机へ跳び上がり、置かれている物を確認した。それは普段目にしない、銀色の大きな筒型の容れ物であった。黒い蓋がついており、肉球で触れると少々重たい物だとわかった。前足で払うように机上をすべらせると、容れ物は少しずつ動いて、とうとう机のふちまで移動し、床へ向けてゆっくりその体を傾けた。瞬間、事態に気づいた主人が聞いたことも無いような悲鳴をあげた。それはまるで我が子が谷へ突き落とされるのを今知ったかのような絶叫であった。派手な音を立てて容れ物が落ちた。主人は飛んできて手を差し出したようだったが、無残に蓋は取れて、中身が露出していた。驚いた細君が何事かと駆けつけたら、「ぜんぶ感光してしまってパァだ」と怒気のにじむ声で主人が顛末を話した。吾輩はコップをぶちまけた時のごとく叱責の手が伸びてくることを予期し、とっさに頭を低くして身構えたが、意外にも主人はさっと冷静に戻り、容れ物の中身を何の感情も込めない手つきで処分しただけだった。日に晒された中身は、黒く細長い紙のような物だった。</p><p>　吾輩の主人は炊事場に立ってバシャバシャやるとき、並々ならぬ気配で居る。谷の底で死んだ我が子をこれ以上悲しんでも生き返らない事を知って冷淡に屑入れへ捨てるほど、鬼の精神で酢の匂いに向き合っている。吾輩は主人の手の中で何が出来上がっているのか知らない。それでも野生の吾輩は、同じく主人の人間に珍しい野生を見ただけで、酢の匂いのしている内は重力検査は止しておこうと思った。</p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[fusée mol07号　目下編集中]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2277807/"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2277807</id><summary><![CDATA[　お世話になっております。現在、fusée molの07号が目下、編集中でございます。　06号より、新たな編集者が加わり、僅かではございますが、紙面の刷新がすすんでおります。皆様に是非ともご覧いただければ幸いです。]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2017-04-18T08:02:18+00:00</published><updated>2017-04-18T08:02:19+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　お世話になっております。現在、fusée molの07号が目下、編集中でございます。</p><p>　06号より、新たな編集者が加わり、僅かではございますが、紙面の刷新がすすんでおります。皆様に是非ともご覧いただければ幸いです。</p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[写真の亡霊〈３〉―痕跡としての写真　ゲニウス・ロキを視る]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2277774/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/5c6470ccc0d0d4dbf7b86d505f86040d_8987077766296220293bc2a76b88d03c.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2277774</id><summary><![CDATA[　もはや写真はなにかを表現（＝expression）するものではなく、それ自体が対象物の存在を示す痕跡（＝impression）としてのみ成立すると仮定した場合、そこにはなにが現れるのか。ここにひとつの方法論を示したい。とはいえ、すべての意味を捨象した代償に、どのような方法もあくまでひとつの要素に過ぎなくなってしまったことを先に言及しておくべきだろう。　痕跡が成立し得る対象のひとつにゲニウス・ロキ（＝地霊）がある。土地とは、太古の海より隆起した土の塊で、そこには人間の営為が開始される以前からの様々な爪痕が残っている。同時に有史以後の度重なる人々の動き、その接し方に大小多少あれども膨大な記憶が宿っていることもまた事実である。この時間の流れの中に痕跡たるゲニウス・ロキを捉えることができれば、人間は語外の体験を肌身で受け止めることができるであろう。その体験もまた土地に蓄積され、ときに残酷な様相を表出させる。　ゲニウス・ロキとは邦訳すれば「土地の守護霊」と言える。近代における初出は１８世紀の英国詩人アレクザンダー・ポープ（Alexander Pope 1688―1744）が「バーリントン卿への書簡」（1731）の中で、土地柄やその雰囲気を指し、建築上重視すべき要素として扱ったところにある。以後、建築を語る指標のひとつとされ、その土地が背負った歴史や根付いた風土が建築様式に影響を与えるとした。　鈴木博之（1945―2014）は、「単なる土地の物理的な形状に由来する可能性だけではなく、その土地のもつ文明、歴史、社会的な背景と性格を読み解く要素もまた含まれていることに触れ、１８世紀以降の所論をまとめる形でクリストファー・タッカー（Chiristopher Tacker 生没年不明）の「The History of Gardens, London, 1979」より次の要約を記している。―「ある場所の『雰囲気」』がそのまわりと異なっており、ある場所が神秘的な特性を持っており、そして何か神秘的なできごとや悲劇的な出来事が近くの岩や木や水の流れに感性的な影響をとどめており、そしてその特別な場所性がそれ自体の『精神』をもつとき」、そこには「ゲニウス・ロキ」がある―（『東京の[地霊]』文芸春秋・1990）　地霊はその場所に感じる語外の空気感を決定する複合的な因子を指すと捉えられる。一方で鈴木が指摘する「文明や歴史などの背景と性格を読み解く」ことを捨象し、「感性的」あるいは「精神的」な因子としての存在に注視すれば、地霊を探す旅には〈境界地〉を見つけ出すことが有効である。　〈境界地〉は風景における時制、要素の差異、意味と意味外、生活と未踏の地など、行為の前後など、言語と非言語の境を指す。これらは単一的に、または入り乱れて存在し、出現が短長期に隔てなく眼前に現れる。それぞれの土地の核となる要素を抽出し、痕跡を写真によって再提示するのであれば、本来の記録性を含有しつつ、語外の体験を凝縮する手立てとなる。そういった意味で、写真は言語を用いることなく、記憶と体験とを保存する唯一の方法として成立し得ると考えられるのである。（おわり）「fusée mol：04」より2016.09　]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2017-04-18T07:54:51+00:00</published><updated>2017-04-18T07:58:16+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　もはや写真はなにかを表現（＝expression）するものではなく、それ自体が対象物の存在を示す痕跡（＝impression）としてのみ成立すると仮定した場合、そこにはなにが現れるのか。ここにひとつの方法論を示したい。とはいえ、すべての意味を捨象した代償に、どのような方法もあくまでひとつの要素に過ぎなくなってしまったことを先に言及しておくべきだろう。</p><p>　痕跡が成立し得る対象のひとつにゲニウス・ロキ（＝地霊）がある。土地とは、太古の海より隆起した土の塊で、そこには人間の営為が開始される以前からの様々な爪痕が残っている。同時に有史以後の度重なる人々の動き、その接し方に大小多少あれども膨大な記憶が宿っていることもまた事実である。この時間の流れの中に痕跡たるゲニウス・ロキを捉えることができれば、人間は語外の体験を肌身で受け止めることができるであろう。その体験もまた土地に蓄積され、ときに残酷な様相を表出させる。</p><p>　ゲニウス・ロキとは邦訳すれば「土地の守護霊」と言える。近代における初出は１８世紀の英国詩人アレクザンダー・ポープ（Alexander Pope 1688―1744）が「バーリントン卿への書簡」（1731）の中で、土地柄やその雰囲気を指し、建築上重視すべき要素として扱ったところにある。以後、建築を語る指標のひとつとされ、その土地が背負った歴史や根付いた風土が建築様式に影響を与えるとした。</p><p>　鈴木博之（1945―2014）は、「単なる土地の物理的な形状に由来する可能性だけではなく、その土地のもつ文明、歴史、社会的な背景と性格を読み解く要素もまた含まれていることに触れ、１８世紀以降の所論をまとめる形でクリストファー・タッカー（Chiristopher Tacker 生没年不明）の「The History of Gardens, London, 1979」より次の要約を記している。</p><p>―「ある場所の『雰囲気」』がそのまわりと異なっており、ある場所が神秘的な特性を持っており、そして何か神秘的なできごとや悲劇的な出来事が近くの岩や木や水の流れに感性的な影響をとどめており、そしてその特別な場所性がそれ自体の『精神』をもつとき」、そこには「ゲニウス・ロキ」がある―（『東京の[地霊]』文芸春秋・1990）</p><p>　地霊はその場所に感じる語外の空気感を決定する複合的な因子を指すと捉えられる。一方で鈴木が指摘する「文明や歴史などの背景と性格を読み解く」ことを捨象し、「感性的」あるいは「精神的」な因子としての存在に注視すれば、地霊を探す旅には〈境界地〉を見つけ出すことが有効である。</p><p>　〈境界地〉は風景における時制、要素の差異、意味と意味外、生活と未踏の地など、行為の前後など、言語と非言語の境を指す。これらは単一的に、または入り乱れて存在し、出現が短長期に隔てなく眼前に現れる。それぞれの土地の核となる要素を抽出し、痕跡を写真によって再提示するのであれば、本来の記録性を含有しつつ、語外の体験を凝縮する手立てとなる。そういった意味で、写真は言語を用いることなく、記憶と体験とを保存する唯一の方法として成立し得ると考えられるのである。（おわり）「fusée mol：04」より</p><p>2016.09　</p><p><br></p><p><br></p><p></p>
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]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[写真の亡霊〈２〉―言語領域と壁]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2171777/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/68d5de1aa5957bc3c0f3dd4f0c08c7cb_48e64850f610b6457d425017bdf796c6.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2171777</id><summary><![CDATA[　　　ジェフリー・バッチェン（Geoffrey Batchen 1956‐）の不屈の解析によって、写真がそれ自体、存在の捉えがたい〈亡霊〉として漂っていることが分かった。もはや言葉の呪縛から解放された写真は、他方ですべての意味を有さない存在となったのではないかという疑問を孕み、わたしたちの認識を袋小路に陥らせたこともまた、自明となりつつある。　わたしは、ここにひとつの方法論を提示する前に、写真と言葉についてもう少しだけ考察を深めたい。　元来、言葉は明確・不明確な文法、指示、文脈、語外意味など様々な要素とそれらによる効果を形成して巨大な体系を得たばかりか、言語領域に属する人々の思考的方向性をある一定のレベルまで同化させることに成功しているといえよう。なぜならば、言語が秩序やモラルの共有意識を下支えすることになるからである。逆説的に捉えれば、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー（Josip Broz Tito 1892‐1980）の偉業が力による支配だったと批判されてもなお、言語の異なる民族をひとつの秩序にまとめた点を評価されることからもうかがい知れよう。言葉のもつ強制力がいかに強固であるかを示すばかりか、近代化への変動と言葉が切っても切り離せない関係にあることを如実に物語っている。　話を写真と言葉に戻そう。日本における写真史は、写真が西洋発祥の技術であることを理解すればするほど、おそろしく全体の黎明期に近づくことができる。言い換えれば、極東の島国が写真史全体の流れにほとんど遅れをとることなく、歴史をつむいできたと言ってもよい。にもかかわらず、長らくあくまで輸入技術であり、輸入された知覚の枠を出なかったこともまた事実である。ここには写真という単語に魔力が潜んでいたことに原因があるように思えてならない。　単語としての〈写真〉自体がいつごろから明確にフォトグラフィ（=photography）の訳語として定着していたかは定かではないが、それは技術の伝播以前に中国大陸から伝わっていたこと、写真機の輸入・撮影行為の最初期にはある程度一般的な用語として定着していたことはどうやら疑う必要がなさそうである。この「真を写す」の意に現れた機能解説的用語がフォトグラフィの邦訳にあてがわれ、ただ固有名詞的な使用とは別に潜在的に機能面での性質が付加されたことが、後の日本の写真界を世界の後発に押し込めたひとつの要因ではなかったか。　まず、語源たるフォトグラフィには「真を写す」という意味はない。直訳すれば、「光の絵」とか、「光画」がふさわしいが、いつのまにか、それがどうあるべきかといった役割、または使命を負わされ語り継がれてきた側面がある。結果的に写真のもつ再現性が、真実という実に不明瞭な概念領域の守護者として、言葉の端にべったりと張り付いてしまっていることをわたしたちはよく知っている。この潜在的に添加された価値基準によって、いくら海外から新たな知覚方法、認識方法を輸入したとしても、いくら〈写真〉という言葉と実際に紙の上に定着された風景との間になんの隷属的関係も成立していないことを説明されても、完全には分化できないでいる。それはどこか信仰のようですらある。また、たかだか日本語の稚訳をことさらに煽りたて、いたずらに言葉遊びに興じていると一蹴できるほど、すでに〈写真〉に寄る辺はない。　プレーヤーたる日本人写真家も、長らく根本的な認識と写真の関係を示してきたかというと甚だ怪しい。幸福の在り方だとか、エロスだとか、自己の内面だとか、郷愁だとかといった、わかったようでさっぱりわからないご都合主義を撒き散らし煙に巻いてきたのである。圧倒的多数の視点から語られる少数派のドキュメンタリーしかり、「真実などではない」と居直る一方でしたたかにステルスマーケティングを展開してきた広告写真の変遷しかり、枚挙に暇がない。　あえて何度でも言うが、写真にご都合な「真実」を写す力などない。仮に写しこめたと自負したところで、瞬く間に滑り落ちてしまうにわか化粧である。撮りたいように、コントロールしたいようにできる世界などありはしない。「真実」がどのように作為されたものかを考えれば、自ずと写真の不安定な眼差しと、言葉の呪縛の強さが壁となって現れることに気がつくのである。　わたしたちが過去写真に期待していた淡い希望をいまだに持ち続けるのであれば、それは実に不幸なことかもしれない。写真がなんらかの〈表現〉（=expression）だと信じて疑わないのであれば、もはや行き着く先は漂泊の旅路となるだろう。〈真を写す〉と言いながらその実、自らの意を他に代弁させる術だと腹中の背反に甘んじるのであれば、もはや目論見は無に帰してしまうほどに写真はあらゆる面で消費され尽くしている。　今日、写真は認識した対象が「在る」ことを示す〈痕跡〉（=impression）としての存在一点においてのみ、わたしたちの知覚の術となりえるのである。（つづく）伊豆野　眸　ジェフリー・バッチェン（Geoffrey Batchen 1956‐）の不屈の解析によって、写真がそれ自体、存在の捉えがたい〈亡霊〉として漂っていることが分かった。もはや言葉の呪縛から解放された写真は、他方ですべての意味を有さない存在となったのではないかという疑問を孕み、わたしたちの認識を袋小路に陥らせたこともまた、自明となりつつある。　わたしは、ここにひとつの方法論を提示する前に、写真と言葉についてもう少しだけ考察を深めたい。　元来、言葉は明確・不明確な文法、指示、文脈、語外意味など様々な要素とそれらによる効果を形成して巨大な体系を得たばかりか、言語領域に属する人々の思考的方向性をある一定のレベルまで同化させることに成功しているといえよう。なぜならば、言語が秩序やモラルの共有意識を下支えすることになるからである。逆説的に捉えれば、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー（Josip Broz Tito 1892‐1980）の偉業が力による支配だったと批判されてもなお、言語の異なる民族をひとつの秩序にまとめた点を評価されることからもうかがい知れよう。言葉のもつ強制力がいかに強固であるかを示すばかりか、近代化への変動と言葉が切っても切り離せない関係にあることを如実に物語っている。　話を写真と言葉に戻そう。日本における写真史は、写真が西洋発祥の技術であることを理解すればするほど、おそろしく全体の黎明期に近づくことができる。言い換えれば、極東の島国が写真史全体の流れにほとんど遅れをとることなく、歴史をつむいできたと言ってもよい。にもかかわらず、長らくあくまで輸入技術であり、輸入された知覚の枠を出なかったこともまた事実である。ここには写真という単語に魔力が潜んでいたことに原因があるように思えてならない。　単語としての〈写真〉自体がいつごろから明確にフォトグラフィ（=photography）の訳語として定着していたかは定かではないが、それは技術の伝播以前に中国大陸から伝わっていたこと、写真機の輸入・撮影行為の最初期にはある程度一般的な用語として定着していたことはどうやら疑う必要がなさそうである。この「真を写す」の意に現れた機能解説的用語がフォトグラフィの邦訳にあてがわれ、ただ固有名詞的な使用とは別に潜在的に機能面での性質が付加されたことが、後の日本の写真界を世界の後発に押し込めたひとつの要因ではなかったか。　まず、語源たるフォトグラフィには「真を写す」という意味はない。直訳すれば、「光の絵」とか、「光画」がふさわしいが、いつのまにか、それがどうあるべきかといった役割、または使命を負わされ語り継がれてきた側面がある。結果的に写真のもつ再現性が、真実という実に不明瞭な概念領域の守護者として、言葉の端にべったりと張り付いてしまっていることをわたしたちはよく知っている。この潜在的に添加された価値基準によって、いくら海外から新たな知覚方法、認識方法を輸入したとしても、いくら〈写真〉という言葉と実際に紙の上に定着された風景との間になんの隷属的関係も成立していないことを説明されても、完全には分化できないでいる。それはどこか信仰のようですらある。また、たかだか日本語の稚訳をことさらに煽りたて、いたずらに言葉遊びに興じていると一蹴できるほど、すでに〈写真〉に寄る辺はない。　プレーヤーたる日本人写真家も、長らく根本的な認識と写真の関係を示してきたかというと甚だ怪しい。幸福の在り方だとか、エロスだとか、自己の内面だとか、郷愁だとかといった、わかったようでさっぱりわからないご都合主義を撒き散らし煙に巻いてきたのである。圧倒的多数の視点から語られる少数派のドキュメンタリーしかり、「真実などではない」と居直る一方でしたたかにステルスマーケティングを展開してきた広告写真の変遷しかり、枚挙に暇がない。　あえて何度でも言うが、写真にご都合な「真実」を写す力などない。仮に写しこめたと自負したところで、瞬く間に滑り落ちてしまうにわか化粧である。撮りたいように、コントロールしたいようにできる世界などありはしない。「真実」がどのように作為されたものかを考えれば、自ずと写真の不安定な眼差しと、言葉の呪縛の強さが壁となって現れることに気がつくのである。　わたしたちが過去写真に期待していた淡い希望をいまだに持ち続けるのであれば、それは実に不幸なことかもしれない。写真がなんらかの〈表現〉（=expression）だと信じて疑わないのであれば、もはや行き着く先は漂泊の旅路となるだろう。〈真を写す〉と言いながらその実、自らの意を他に代弁させる術だと腹中の背反に甘んじるのであれば、もはや目論見は無に帰してしまうほどに写真はあらゆる面で消費され尽くしている。　今日、写真は認識した対象が「在る」ことを示す〈痕跡〉（=impression）としての存在一点においてのみ、わたしたちの知覚の術となりえるのである。（つづく）「fusée mol：03」（2016.05）より　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　伊豆野　眸]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2017-03-23T14:18:49+00:00</published><updated>2017-03-23T14:18:50+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　　</p><p>　ジェフリー・バッチェン（Geoffrey Batchen 1956‐）の不屈の解析によって、写真がそれ自体、存在の捉えがたい〈亡霊〉として漂っていることが分かった。もはや言葉の呪縛から解放された写真は、他方ですべての意味を有さない存在となったのではないかという疑問を孕み、わたしたちの認識を袋小路に陥らせたこともまた、自明となりつつある。</p><p>　わたしは、ここにひとつの方法論を提示する前に、写真と言葉についてもう少しだけ考察を深めたい。</p><p>　元来、言葉は明確・不明確な文法、指示、文脈、語外意味など様々な要素とそれらによる効果を形成して巨大な体系を得たばかりか、言語領域に属する人々の思考的方向性をある一定のレベルまで同化させることに成功しているといえよう。なぜならば、言語が秩序やモラルの共有意識を下支えすることになるからである。逆説的に捉えれば、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー（Josip Broz Tito 1892‐1980）の偉業が力による支配だったと批判されてもなお、言語の異なる民族をひとつの秩序にまとめた点を評価されることからもうかがい知れよう。言葉のもつ強制力がいかに強固であるかを示すばかりか、近代化への変動と言葉が切っても切り離せない関係にあることを如実に物語っている。</p><p>　話を写真と言葉に戻そう。日本における写真史は、写真が西洋発祥の技術であることを理解すればするほど、おそろしく全体の黎明期に近づくことができる。言い換えれば、極東の島国が写真史全体の流れにほとんど遅れをとることなく、歴史をつむいできたと言ってもよい。にもかかわらず、長らくあくまで輸入技術であり、輸入された知覚の枠を出なかったこともまた事実である。ここには写真という単語に魔力が潜んでいたことに原因があるように思えてならない。</p><p>　単語としての〈写真〉自体がいつごろから明確にフォトグラフィ（=photography）の訳語として定着していたかは定かではないが、それは技術の伝播以前に中国大陸から伝わっていたこと、写真機の輸入・撮影行為の最初期にはある程度一般的な用語として定着していたことはどうやら疑う必要がなさそうである。この「真を写す」の意に現れた機能解説的用語がフォトグラフィの邦訳にあてがわれ、ただ固有名詞的な使用とは別に潜在的に機能面での性質が付加されたことが、後の日本の写真界を世界の後発に押し込めたひとつの要因ではなかったか。</p><p>　まず、語源たるフォトグラフィには「真を写す」という意味はない。直訳すれば、「光の絵」とか、「光画」がふさわしいが、いつのまにか、それがどうあるべきかといった役割、または使命を負わされ語り継がれてきた側面がある。結果的に写真のもつ再現性が、真実という実に不明瞭な概念領域の守護者として、言葉の端にべったりと張り付いてしまっていることをわたしたちはよく知っている。この潜在的に添加された価値基準によって、いくら海外から新たな知覚方法、認識方法を輸入したとしても、いくら〈写真〉という言葉と実際に紙の上に定着された風景との間になんの隷属的関係も成立していないことを説明されても、完全には分化できないでいる。それはどこか信仰のようですらある。また、たかだか日本語の稚訳をことさらに煽りたて、いたずらに言葉遊びに興じていると一蹴できるほど、すでに〈写真〉に寄る辺はない。</p><p>　プレーヤーたる日本人写真家も、長らく根本的な認識と写真の関係を示してきたかというと甚だ怪しい。幸福の在り方だとか、エロスだとか、自己の内面だとか、郷愁だとかといった、わかったようでさっぱりわからないご都合主義を撒き散らし煙に巻いてきたのである。圧倒的多数の視点から語られる少数派のドキュメンタリーしかり、「真実などではない」と居直る一方でしたたかにステルスマーケティングを展開してきた広告写真の変遷しかり、枚挙に暇がない。</p><p>　あえて何度でも言うが、写真にご都合な「真実」を写す力などない。仮に写しこめたと自負したところで、瞬く間に滑り落ちてしまうにわか化粧である。撮りたいように、コントロールしたいようにできる世界などありはしない。「真実」がどのように作為されたものかを考えれば、自ずと写真の不安定な眼差しと、言葉の呪縛の強さが壁となって現れることに気がつくのである。</p><p>　わたしたちが過去写真に期待していた淡い希望をいまだに持ち続けるのであれば、それは実に不幸なことかもしれない。写真がなんらかの〈表現〉（=expression）だと信じて疑わないのであれば、もはや行き着く先は漂泊の旅路となるだろう。〈真を写す〉と言いながらその実、自らの意を他に代弁させる術だと腹中の背反に甘んじるのであれば、もはや目論見は無に帰してしまうほどに写真はあらゆる面で消費され尽くしている。</p><p>　今日、写真は認識した対象が「在る」ことを示す〈痕跡〉（=impression）としての存在一点においてのみ、わたしたちの知覚の術となりえるのである。（つづく）</p><p></p><p>伊豆野　眸</p><p>　ジェフリー・バッチェン（Geoffrey Batchen 1956‐）の不屈の解析によって、写真がそれ自体、存在の捉えがたい〈亡霊〉として漂っていることが分かった。もはや言葉の呪縛から解放された写真は、他方ですべての意味を有さない存在となったのではないかという疑問を孕み、わたしたちの認識を袋小路に陥らせたこともまた、自明となりつつある。</p><p>　わたしは、ここにひとつの方法論を提示する前に、写真と言葉についてもう少しだけ考察を深めたい。</p><p>　元来、言葉は明確・不明確な文法、指示、文脈、語外意味など様々な要素とそれらによる効果を形成して巨大な体系を得たばかりか、言語領域に属する人々の思考的方向性をある一定のレベルまで同化させることに成功しているといえよう。なぜならば、言語が秩序やモラルの共有意識を下支えすることになるからである。逆説的に捉えれば、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー（Josip Broz Tito 1892‐1980）の偉業が力による支配だったと批判されてもなお、言語の異なる民族をひとつの秩序にまとめた点を評価されることからもうかがい知れよう。言葉のもつ強制力がいかに強固であるかを示すばかりか、近代化への変動と言葉が切っても切り離せない関係にあることを如実に物語っている。</p><p>　話を写真と言葉に戻そう。日本における写真史は、写真が西洋発祥の技術であることを理解すればするほど、おそろしく全体の黎明期に近づくことができる。言い換えれば、極東の島国が写真史全体の流れにほとんど遅れをとることなく、歴史をつむいできたと言ってもよい。にもかかわらず、長らくあくまで輸入技術であり、輸入された知覚の枠を出なかったこともまた事実である。ここには写真という単語に魔力が潜んでいたことに原因があるように思えてならない。</p><p>　単語としての〈写真〉自体がいつごろから明確にフォトグラフィ（=photography）の訳語として定着していたかは定かではないが、それは技術の伝播以前に中国大陸から伝わっていたこと、写真機の輸入・撮影行為の最初期にはある程度一般的な用語として定着していたことはどうやら疑う必要がなさそうである。この「真を写す」の意に現れた機能解説的用語がフォトグラフィの邦訳にあてがわれ、ただ固有名詞的な使用とは別に潜在的に機能面での性質が付加されたことが、後の日本の写真界を世界の後発に押し込めたひとつの要因ではなかったか。</p><p>　まず、語源たるフォトグラフィには「真を写す」という意味はない。直訳すれば、「光の絵」とか、「光画」がふさわしいが、いつのまにか、それがどうあるべきかといった役割、または使命を負わされ語り継がれてきた側面がある。結果的に写真のもつ再現性が、真実という実に不明瞭な概念領域の守護者として、言葉の端にべったりと張り付いてしまっていることをわたしたちはよく知っている。この潜在的に添加された価値基準によって、いくら海外から新たな知覚方法、認識方法を輸入したとしても、いくら〈写真〉という言葉と実際に紙の上に定着された風景との間になんの隷属的関係も成立していないことを説明されても、完全には分化できないでいる。それはどこか信仰のようですらある。また、たかだか日本語の稚訳をことさらに煽りたて、いたずらに言葉遊びに興じていると一蹴できるほど、すでに〈写真〉に寄る辺はない。</p><p>　プレーヤーたる日本人写真家も、長らく根本的な認識と写真の関係を示してきたかというと甚だ怪しい。幸福の在り方だとか、エロスだとか、自己の内面だとか、郷愁だとかといった、わかったようでさっぱりわからないご都合主義を撒き散らし煙に巻いてきたのである。圧倒的多数の視点から語られる少数派のドキュメンタリーしかり、「真実などではない」と居直る一方でしたたかにステルスマーケティングを展開してきた広告写真の変遷しかり、枚挙に暇がない。</p><p>　あえて何度でも言うが、写真にご都合な「真実」を写す力などない。仮に写しこめたと自負したところで、瞬く間に滑り落ちてしまうにわか化粧である。撮りたいように、コントロールしたいようにできる世界などありはしない。「真実」がどのように作為されたものかを考えれば、自ずと写真の不安定な眼差しと、言葉の呪縛の強さが壁となって現れることに気がつくのである。</p><p>　わたしたちが過去写真に期待していた淡い希望をいまだに持ち続けるのであれば、それは実に不幸なことかもしれない。写真がなんらかの〈表現〉（=expression）だと信じて疑わないのであれば、もはや行き着く先は漂泊の旅路となるだろう。〈真を写す〉と言いながらその実、自らの意を他に代弁させる術だと腹中の背反に甘んじるのであれば、もはや目論見は無に帰してしまうほどに写真はあらゆる面で消費され尽くしている。</p><p>　今日、写真は認識した対象が「在る」ことを示す〈痕跡〉（=impression）としての存在一点においてのみ、わたしたちの知覚の術となりえるのである。（つづく）「fusée mol：03」（2016.05）より</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　伊豆野　眸</p><p></p>
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]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[写真の亡霊〈１〉―バッチェンの解放]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2168455/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/99f9136624c3797185a9a5eb7ae864b2_c9cb8da84202861e2c7371d41d3061ec.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2168455</id><summary><![CDATA[　写真とは何か、写真には何が可能で何が不可能か。この問いは、語るに厄介な装置が誕生しておよそ２世紀が経とうとしている現在も、相変わらず写真論の存在意義を支える柱として居残り続けている。　写真とは〈亡霊〉であると考えれば、それ自体を捉えやすくなる。長らく写真論の対極にあったフォーマリズムが美学的要素を説明しようと、反対にポストモダニズムがいかに社会学、現象学的言説（そのほとんどが権威構造の中に個人の知覚を埋没させる機構の存在を時に嫌になるほど繰り返し説明する結果から逃れられなかったとしても）で解説しようとしても、それは真であり、また偽である。　一般的に、わたしたちは自らの存在を疑うことはない。それと同様に世界の存在を自明として疑うこともない。わたしたちは自らの見ている他者の存在を疑い、世界の存在を疑うことも出来るが、疑うに足り得ない理由を探そうとし、短絡的な納得を得て、自らの存在の〈確からしさ〉を導きだしている。ただし、他者が自らと全く同様に自らを、世界を認識しているかについては終ぞ確認できないまま人生に幕を下すこともまた事実である。人類は自分たちのことを知れば知ろうとするほど、「自分たち」が「自分だけ」ではないかという妄想に駆られ、恐怖する。妄想を妄想だと嘲笑うために、強固な制度の城と偉大なるモラルの塔を建てる。互いを縛ることは自らを縛ることであるはずだが、自己存在の再定義を〈世界〉に埋没させる代償を払ってでも認識共有の安定を得ようとするし、収まりきらない間は「認識できないもの」としてとりあえずラベリングすることで認識領域の内に隷属させるプロセスを確立している。　これらの思考の螺旋運動にとって言語は非常に有効な道具であった。逆に言えば、ポストモダニズムが懸命に言説を重ねてたどり着いた写真論が社会構造の解明に偏向してきたことも、写真の本質を諸要素による集合組織の美と解釈してきたフォーマリズムの動向にも納得できる。人類の英知として自らの存在を確固とした上で、〈共通認識〉を強制する動きに他ならない。　しかし、人間はその精神の成熟よりも遥かに発達した科学技術によってその柔軟かつ無機質でシステマティックな媒介を得たことで、根本的な問題に座礁してしまった。デジタル映像の出現によってである。　ジェフリー・バッチェン（Geoffrey Batchen 1956‐）はデジタル映像の出現は写真にとって二つの〈死〉を身近なものとしたことを示唆している。要約すると、デジタル写真を「記号たる（アナログ）写真を示す記号」とした上で、①コンピューターによる画像処理の広範な導入によって写真の真正性が（より一層）疑われ、文化的技術的な地位が失墜してしまうのではないかという意味での〈死〉。②オリジナルとそのシミュレーション、真と偽、事物と記号、自然と文化など従来の認識論的布置を成してきた二項対立が失効してしまう状況を指す意味での〈死〉を捉えた。これらの〈死〉によって、かつてアナログ写真がもっていた様々な時制やそれらによる初体験をデジタル写真は背負う必要がないと説明している。（前川修・佐藤守弘・岩城覚久訳『写真のアルケオロジー』青弓社・2010）　では、わたしたちが追い求めてきた写真の本質とその効果そのものが失われてしまったのだろうか。「記号の記号」たるデジタル写真の登場によって、写真そのものが宿してきたものが無意味となった訳ではないし、バッチェンが示す諸体験が永遠に失われたわけではない。むしろ従前の〈解釈〉のフィルターを通さずとも肌身に感じることができるようになったと言えはしまいか。　写真は難解で捉えがたい〈亡霊〉としていまだ漂流している。かつて芸術からのあまりにも強い磁場を断ち切ろうとした写真が、逆に芸術へ憑依しようとしている様が露になったことも注意すべきである。われわれは、その評価の善し悪しは別にせよ、ジョン・バルデッサリ（John Anthony Baldessari 1931‐）、ゲルハルト・リヒター（Gerhard Richter 1932‐）、デイビット・サーレ（David Salle 1952‐）、シンディ・シャーマン（Cindy Sherman 1954‐）らの仕事に接し芸術が写真に巻き込まれていることを否定できない。私たちは亡霊の呪縛に憑依される一方でようやく、共通認識がいかに脆く、不確かな概念であるかを暴くことができた。確かに楽観視できるものでないにせよ、写真は生まれてはじめて統制を解き放たれて、外海へとつながる道を歩み始めたのである。いま人類は、新たな知覚の岐路に立った。（つづく）「fusée mol：02」（2016.03）より                    　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　  伊豆野眸]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2017-03-22T15:26:48+00:00</published><updated>2017-03-23T14:09:47+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　写真とは何か、写真には何が可能で何が不可能か。この問いは、語るに厄介な装置が誕生しておよそ２世紀が経とうとしている現在も、相変わらず写真論の存在意義を支える柱として居残り続けている。</p><p>　写真とは〈亡霊〉であると考えれば、それ自体を捉えやすくなる。長らく写真論の対極にあったフォーマリズムが美学的要素を説明しようと、反対にポストモダニズムがいかに社会学、現象学的言説（そのほとんどが権威構造の中に個人の知覚を埋没させる機構の存在を時に嫌になるほど繰り返し説明する結果から逃れられなかったとしても）で解説しようとしても、それは真であり、また偽である。</p><p>　一般的に、わたしたちは自らの存在を疑うことはない。それと同様に世界の存在を自明として疑うこともない。わたしたちは自らの見ている他者の存在を疑い、世界の存在を疑うことも出来るが、疑うに足り得ない理由を探そうとし、短絡的な納得を得て、自らの存在の〈確からしさ〉を導きだしている。ただし、他者が自らと全く同様に自らを、世界を認識しているかについては終ぞ確認できないまま人生に幕を下すこともまた事実である。人類は自分たちのことを知れば知ろうとするほど、「自分たち」が「自分だけ」ではないかという妄想に駆られ、恐怖する。妄想を妄想だと嘲笑うために、強固な制度の城と偉大なるモラルの塔を建てる。互いを縛ることは自らを縛ることであるはずだが、自己存在の再定義を〈世界〉に埋没させる代償を払ってでも認識共有の安定を得ようとするし、収まりきらない間は「認識できないもの」としてとりあえずラベリングすることで認識領域の内に隷属させるプロセスを確立している。</p><p>　これらの思考の螺旋運動にとって言語は非常に有効な道具であった。逆に言えば、ポストモダニズムが懸命に言説を重ねてたどり着いた写真論が社会構造の解明に偏向してきたことも、写真の本質を諸要素による集合組織の美と解釈してきたフォーマリズムの動向にも納得できる。人類の英知として自らの存在を確固とした上で、〈共通認識〉を強制する動きに他ならない。</p><p>　しかし、人間はその精神の成熟よりも遥かに発達した科学技術によってその柔軟かつ無機質でシステマティックな媒介を得たことで、根本的な問題に座礁してしまった。デジタル映像の出現によってである。</p><p>　ジェフリー・バッチェン（Geoffrey Batchen 1956‐）はデジタル映像の出現は写真にとって二つの〈死〉を身近なものとしたことを示唆している。要約すると、デジタル写真を「記号たる（アナログ）写真を示す記号」とした上で、①コンピューターによる画像処理の広範な導入によって写真の真正性が（より一層）疑われ、文化的技術的な地位が失墜してしまうのではないかという意味での〈死〉。②オリジナルとそのシミュレーション、真と偽、事物と記号、自然と文化など従来の認識論的布置を成してきた二項対立が失効してしまう状況を指す意味での〈死〉を捉えた。これらの〈死〉によって、かつてアナログ写真がもっていた様々な時制やそれらによる初体験をデジタル写真は背負う必要がないと説明している。（前川修・佐藤守弘・岩城覚久訳『写真のアルケオロジー』青弓社・2010）</p><p>　では、わたしたちが追い求めてきた写真の本質とその効果そのものが失われてしまったのだろうか。「記号の記号」たるデジタル写真の登場によって、写真そのものが宿してきたものが無意味となった訳ではないし、バッチェンが示す諸体験が永遠に失われたわけではない。むしろ従前の〈解釈〉のフィルターを通さずとも肌身に感じることができるようになったと言えはしまいか。</p><p>　写真は難解で捉えがたい〈亡霊〉としていまだ漂流している。かつて芸術からのあまりにも強い磁場を断ち切ろうとした写真が、逆に芸術へ憑依しようとしている様が露になったことも注意すべきである。われわれは、その評価の善し悪しは別にせよ、ジョン・バルデッサリ（John Anthony Baldessari 1931‐）、ゲルハルト・リヒター（Gerhard Richter 1932‐）、デイビット・サーレ（David Salle 1952‐）、シンディ・シャーマン（Cindy Sherman 1954‐）らの仕事に接し芸術が写真に巻き込まれていることを否定できない。</p><p>私たちは亡霊の呪縛に憑依される一方でようやく、共通認識がいかに脆く、不確かな概念であるかを暴くことができた。確かに楽観視できるものでないにせよ、写真は生まれてはじめて統制を解き放たれて、外海へとつながる道を歩み始めたのである。いま人類は、新たな知覚の岐路に立った。（つづく）「fusée mol：02」（2016.03）より</p><p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&nbsp; 伊豆野眸</p><p></p>
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]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[fusée mol: 04～06号刊行のお知らせ]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2168371/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/3d2450eb4ba583e222a38a1cb18d0c1d_0df9df1a9d3baf52e76a90405607fa4c.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/2168371</id><summary><![CDATA[長らく放置しておりました。誠に申し訳ございません。fusée04～06号を発行しております。ご入用の方は下記メールアドレスまでご一報ください。無料でお送りいたします。メール hitomi_izuno1114_0315@yahoo.co.jp]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2017-03-22T15:08:43+00:00</published><updated>2017-03-22T15:13:10+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>長らく放置しておりました。誠に申し訳ございません。fusée04～06号を発行しております。</p><p>ご入用の方は下記メールアドレスまでご一報ください。無料でお送りいたします。</p><p>メール hitomi_izuno1114_0315@yahoo.co.jp</p><p></p><p></p><p></p><p></p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[fusée mol: 02, 03号刊行のお知らせ]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/1004624/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/8bc5cb460e7e8c238c7e493f5854509b_0dae9a6d8a842975d2930beb02d0dcd1.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/1004624</id><summary><![CDATA[長らく放置しておりまして誠に申し訳ございません。fusêe mol ：02、03を刊行いたしました。松山市内の古書店、カフェ、ギャラリー等で無料配布しております。また、全国の写真関係団体の皆様にもお送りしております。ご入用の方はお問い合わせくださいませ。]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-07-08T13:32:39+00:00</published><updated>2016-07-08T13:32:39+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>長らく放置しておりまして誠に申し訳ございません。fusêe mol ：02、03を刊行いたしました。松山市内の古書店、カフェ、ギャラリー等で無料配布しております。また、全国の写真関係団体の皆様にもお送りしております。ご入用の方はお問い合わせくださいませ。</p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[蟲日記　長い旅路－その１]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/609901/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/1019b4bcd39dfaedbf09fca04e7b0cf8_0f1fcd57d6d4df9539f31f89b525357f.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/609901</id><summary><![CDATA[　魔の交差点。写真家はいつしか自分の中で、一見なんの変哲もない国道交差点をそう呼んでいた。午後８時を少し過ぎた頃だったか。長年付き合いのある篆刻家からの急の呼び出しに応召し、師走の寒道、翁邸を目指して蟲を駆った。さすがはドクターズ・カーと呼ばれただけあって、寒日夜間でも一発始動。４年前に乗っていた、毎度チョークを引っ張らなければならないミニとは違い、オートチョークの恩恵を感じる。しかし、気のせいだと何度も思いたくなるほど、その夜は嫌な予感がしていた。　第六感といえば大仰そのものだが、直感的な、なにか嫌ったらしい空気が流れている。写真家は日ごろからその嫌ったらしい空気を察知することだけは、他にも勝る鋭さを持っていた。その直感が働いてか、できすぎた偶然なのかは分からないが、命に関わるほどの事柄には結果的に無縁といえた。できるだけ気分が乗らないときには動かないように努めてきたからである。　しかし、その夜だけはそうはいかなかった。４日後に迫った作品展の出品作品数が足りず急に件の翁と落ち合って協議する必要がでてきた。　対向車線からのハイビームが眼に触る。焦ることもない、いつもの道ではあったが、はやく用事を済ませようと逸った。アクセルペダルを少しだけ踏み込み、クラッチを切る。４速に入れてクラッチを戻した瞬間、ドーン！ といういままで聞いたこともない爆発音が耳をつんざいた。一刹那、後部から大きなものが追突してきたかのような衝撃が背中に伝わった。交差点。衝突事故に巻き込まれたかとバックミラーに眼をやるも、写真家の車しかいない。アクセルを踏み込むと、ズズズズズズズブブブブズズズズブーブーン……とドグラ・マグラさながらの妙に引きずるような音をともなって、車体が前後に振動し始めた。ノッキングを起こしている。クラッチ合わせが悪かったのかと３速に落とすと振動も異音も鳴り止んだ。　黄……赤。一時停止の遥か前からブレーキをかけ始める。ボボボボボボボ……ボボ……。ニュートラルに戻してはいるが、いつもより早いスピードで回転数が減退しているのが分かる。停止線を前に、蟲特有の空冷エンジン音も完全に沈黙した。　写真家はとっさにキーを捻ってエンジンをかけなおし、吹かし気味にハンドルを切る。計器にわずか警告ランプが点いたのを見逃さなかった。エンジンオイルが少なくなってきている。なおも吹かしながら２速で走行し、最寄りのガソリンスタンドに飛び込んだ。　「たぶん、オイルが無くなっているんだと思うんですが、できるだけ硬いのもらえませんか？」……たぶんアルバイト店員なのだろう。きょとんとした様子で「うちではちょっと……壊れたら賠償とかできないですし……そもそもこれ、どこからオイル入れるんですか？」　写真家は電話帳と自らの記憶をたどり、数年前に駆け込んだ主治医の店を思い出した。もう営業時間を過ぎていてもおかしくない時間だ。電話をかける手に汗が滲む。　「大丈夫ですよ！ いまから持ってこれますか？ 駄目だったらレッカーで行きますよ！」やけに高揚とした声が耳元に広がった……………………。　　あれから数時間。意気揚々と作業の手を緩めない主治医の後ろを丁稚小僧のごとく追いかけ廻すも、ひらりひらりとかわされるように根本的な問題にたどり着けずにいる自分の無知を悲観するしかなかった。スパークプラグを入れ替え、オイルをだぷだぷと注ぎ、キャブレターのノブを人差し指と中指で引っ張ってはビスを廻していることだけが確認できる。何をしているのかまったく分からない。そのときだった。　「よし！ 今日はこんなもんでしょう」　どうやら終わったようだ。ほっとする写真家を一瞥した主治医曰く、「あくまで応急処置です。なにも直っちゃいません。しばらくしたらまた同じようなことが起こります」。恐ろしいことを平然とした様子で言い放つメカニックに狂気めいた異彩を禁じえずにはいられなかった。　「それに、今日は遅くなってお待たせしてしまいましたから、また都合の良い日にお越しください。できれば早いうちに見させていただければきちんと説明して可能な範囲で修理します。あとは、ぼったくりじゃないかってくらいの治療費を請求します。よおくお考えください」。そこにはブラックジャックがいた。　その日の修理費は５千円ほど。高額治療費の手付金にしては安すぎるし、なにせ閉店時間を遥かに過ぎた対応としては「大丈夫か」と不安にさせるほどだ。ありあまる技術と良心とが信頼を呼ぶ好例をまざまざと見せつけられてしまった。大遅刻となったが、予定も無事にこなせた。もしあのとき電話が通じなかったらと身震いする。　数日後、主治医の予言は的中した。それも、蟲が沈黙した魔の交差点を前にして。偉大なる預言者は人々をひれ伏させる力を持つというが、まさか身近に経験するとは思ってもみなかった。写真家の自動車が故障するときは、いつも最悪のときに訪れる。よりによって結婚式の打ち合わせに式場へ向かう途中だった。　後方より容赦なく浴びせられる罵倒のクラクションを背に、羞恥に耐えながら路肩へ車体を押す。うんともすんとも言わない。最中、主治医の声が脳裏をかすめた。　「また都合の良い日にお越しください」（つづく）]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-03-08T15:01:12+00:00</published><updated>2016-03-08T15:01:12+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　魔の交差点。写真家はいつしか自分の中で、一見なんの変哲もない国道交差点をそう呼んでいた。午後８時を少し過ぎた頃だったか。長年付き合いのある篆刻家からの急の呼び出しに応召し、師走の寒道、翁邸を目指して蟲を駆った。さすがはドクターズ・カーと呼ばれただけあって、寒日夜間でも一発始動。４年前に乗っていた、毎度チョークを引っ張らなければならないミニとは違い、オートチョークの恩恵を感じる。しかし、気のせいだと何度も思いたくなるほど、その夜は嫌な予感がしていた。</p><p>　第六感といえば大仰そのものだが、直感的な、なにか嫌ったらしい空気が流れている。写真家は日ごろからその嫌ったらしい空気を察知することだけは、他にも勝る鋭さを持っていた。その直感が働いてか、できすぎた偶然なのかは分からないが、命に関わるほどの事柄には結果的に無縁といえた。できるだけ気分が乗らないときには動かないように努めてきたからである。</p><p>　しかし、その夜だけはそうはいかなかった。４日後に迫った作品展の出品作品数が足りず急に件の翁と落ち合って協議する必要がでてきた。</p><p>　対向車線からのハイビームが眼に触る。焦ることもない、いつもの道ではあったが、はやく用事を済ませようと逸った。アクセルペダルを少しだけ踏み込み、クラッチを切る。４速に入れてクラッチを戻した瞬間、ドーン！ といういままで聞いたこともない爆発音が耳をつんざいた。一刹那、後部から大きなものが追突してきたかのような衝撃が背中に伝わった。交差点。衝突事故に巻き込まれたかとバックミラーに眼をやるも、写真家の車しかいない。アクセルを踏み込むと、ズズズズズズズブブブブズズズズブーブーン……とドグラ・マグラさながらの妙に引きずるような音をともなって、車体が前後に振動し始めた。ノッキングを起こしている。クラッチ合わせが悪かったのかと３速に落とすと振動も異音も鳴り止んだ。</p><p>　黄……赤。一時停止の遥か前からブレーキをかけ始める。ボボボボボボボ……ボボ……。ニュートラルに戻してはいるが、いつもより早いスピードで回転数が減退しているのが分かる。停止線を前に、蟲特有の空冷エンジン音も完全に沈黙した。</p><p>　写真家はとっさにキーを捻ってエンジンをかけなおし、吹かし気味にハンドルを切る。計器にわずか警告ランプが点いたのを見逃さなかった。エンジンオイルが少なくなってきている。なおも吹かしながら２速で走行し、最寄りのガソリンスタンドに飛び込んだ。</p><p>　「たぶん、オイルが無くなっているんだと思うんですが、できるだけ硬いのもらえませんか？」……たぶんアルバイト店員なのだろう。きょとんとした様子で「うちではちょっと……壊れたら賠償とかできないですし……そもそもこれ、どこからオイル入れるんですか？」</p><p>　写真家は電話帳と自らの記憶をたどり、数年前に駆け込んだ主治医の店を思い出した。もう営業時間を過ぎていてもおかしくない時間だ。電話をかける手に汗が滲む。</p><p>　「大丈夫ですよ！ いまから持ってこれますか？ 駄目だったらレッカーで行きますよ！」やけに高揚とした声が耳元に広がった……………………。</p><p>　</p><p>　あれから数時間。意気揚々と作業の手を緩めない主治医の後ろを丁稚小僧のごとく追いかけ廻すも、ひらりひらりとかわされるように根本的な問題にたどり着けずにいる自分の無知を悲観するしかなかった。スパークプラグを入れ替え、オイルをだぷだぷと注ぎ、キャブレターのノブを人差し指と中指で引っ張ってはビスを廻していることだけが確認できる。何をしているのかまったく分からない。そのときだった。</p><p>　「よし！ 今日はこんなもんでしょう」</p><p>　どうやら終わったようだ。ほっとする写真家を一瞥した主治医曰く、「あくまで応急処置です。なにも直っちゃいません。しばらくしたらまた同じようなことが起こります」。恐ろしいことを平然とした様子で言い放つメカニックに狂気めいた異彩を禁じえずにはいられなかった。</p><p>　「それに、今日は遅くなってお待たせしてしまいましたから、また都合の良い日にお越しください。できれば早いうちに見させていただければきちんと説明して可能な範囲で修理します。あとは、ぼったくりじゃないかってくらいの治療費を請求します。よおくお考えください」。そこにはブラックジャックがいた。</p><p>　その日の修理費は５千円ほど。高額治療費の手付金にしては安すぎるし、なにせ閉店時間を遥かに過ぎた対応としては「大丈夫か」と不安にさせるほどだ。ありあまる技術と良心とが信頼を呼ぶ好例をまざまざと見せつけられてしまった。大遅刻となったが、予定も無事にこなせた。もしあのとき電話が通じなかったらと身震いする。</p><p>　数日後、主治医の予言は的中した。それも、蟲が沈黙した魔の交差点を前にして。偉大なる預言者は人々をひれ伏させる力を持つというが、まさか身近に経験するとは思ってもみなかった。写真家の自動車が故障するときは、いつも最悪のときに訪れる。よりによって結婚式の打ち合わせに式場へ向かう途中だった。</p><p>　後方より容赦なく浴びせられる罵倒のクラクションを背に、羞恥に耐えながら路肩へ車体を押す。うんともすんとも言わない。最中、主治医の声が脳裏をかすめた。</p><p>　「また都合の良い日にお越しください」（つづく）</p><p><br></p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[お知らせ　fusée mol No.2発行作業中]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/581558/"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/581558</id><summary><![CDATA[　このたび、３月末日刊行を予定しているfusée mol No.2の編集作業が順調に進んでいることをお伝えします。皆様ご期待ください。]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-02-29T13:39:21+00:00</published><updated>2016-02-29T13:39:21+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　このたび、３月末日刊行を予定しているfusée mol No.2の編集作業が順調に進んでいることをお伝えします。皆様ご期待ください。</p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[蟲日記　序章ーその２]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/581519/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/d0c83f2f2a1a9d03a65e8f3538e69b0f_9e06fc5bfd9ff405c64fb47ca6c8ad1f.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/581519</id><summary><![CDATA[　技術と知識とは相反するが故にバランスが不可欠である。写真家は常々そう心に留めてきたつもりでいた。が、自動車のことについては他の多くの日本人と同様、ほとんど何も知らないし、普通自動車免許（中型）以上の技術も持ち合わせていない。ただ、写真家が少し風変わりだったのは現在市販されている自動車にあまり興味が持てず、彼の眼に止まるのは、何十年も前に基本構造が確立された車種か、あるいは地方都市には極端にディーラーの数が少ないものばかりであった。元来泡銭が手に入ると、カメラやレンズ、写真関係機器の購入費に投入してきたことも手伝って、自然と中古車ばかりを選んでいたことも一部起因している。　彼が自らの名義で手に入れた初めての自動車は英国ローバー社９６年製のミニ・クーパーメイフェア（１．３ｉ）であった。予てより車を所持するようになったら、そのヤーライ式流線型ボディの魅力をもって、西ドイツ製のフォルクスワーゲン・Type１（ビートル）を求めることに決めていた。元来、維持するための知識や技術など考えることもなかった。まさに悲劇である。２０１０年夏、勇んでアパート近くの中古車業者に相談しに行くと、予想通りそこに実車はなかった。全国の中古車業者に照会してもらう段取りをつけて店から出たときだった。眼が合ってしまったのである。真っ赤な光沢の、小さなボディが真夏の太陽を一身に受けているとさえ思えた。すぐさま引き返し、試乗を頼んで、その日のうちに契約した。いま思い返せば、間違いなく若気の至りであるが、とんとん拍子にことは運び、翌週には納車となった。金額にして４０万円弱。そのほとんどが車検代であったことは言うまでもない。　パワーステアリングなどない。恐ろしく小さな車体であるが、小廻りの利かない車であった。しかし、写真家は非常に気に入っていた。泣く子も黙るほど無茶な乗り方をしたことが、当時の彼の日記から想像できる。極限にまで絞り込まれたフォルムに１３００ccものエンジンが搭載され、大人４人が何とか乗り込める設計に潔さを感じていた。一般に旧ミニ（ＢＭＷ社傘下後の新ミニは、ミニではなく「デカ」とでも名付けるべきだ）は、その安全機構のなさから「走る棺桶」と呼ばれている。そのソリッドな思想も彼の性格上の破綻から「最良の選択」と変換されていた。　冷却水漏れで煙を出しながら止まったこと、クーラー用のベルトの設置が悪くスイッチを入れた瞬間からけたたましく鳴き始めることには眼をつぶった。この車には良く乗った。２年後に悲劇を経験するまでは。　２０１４年夏。いつものように、後の妻を助手背に乗せて走っていると、急に異音がし始めた。凸凹道で急加速・急停止を繰り返していたわけではない。「ギャギャギャギャ！」と明らかに好ましくない音がタイヤ周辺からとどまることなく聞こえている。運悪くその日は購入した中古車業者が定休日。急いで複数の知人にどこか良い修理工場がないか聞いて廻るも、旧車をきちんと扱える場所は思い浮かばないという。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。「もしかすると」くらいの話で一件だけ見つかった。それが主治医との出会いとなった。　診断結果は驚くほど単純かつ複雑だった。ベアリング部分の４つともに石が詰まっているとのこと。そして、思わぬことに、その石が重要な箇所を数点破壊してしまっていること。異音は徐々に破壊される部品の断末魔ということであった。修理価格はおよそ３０万円。親切にも、最寄りの修理工場でも対応できるようにと、診断書を無料で書いてくれた。当時大きな支払いの直後で預金がなかったこともあり、暫く知人の自動車販売業者で預かってもらうことにした。問い合わせると、知人のメカニックでも対応できるとのこと。悪い癖が出てきた。「この車にあと何年くらい乗りたいのか」、急に分からなくなってしまったのだ。愛着をもって触れてきたものに、恐ろしく冷淡になれるのもまた、彼の特性である。特に道具に対してはことさらその特性は強く生じるように思える。自分の手や眼の延長だと思えるほど慣れ親しんだカメラでさえ、急激に興味を失うことがままある。彼の中では明白に、時々に合わせて「最良」をその岐路ごとに選択しているに他ならなかったが、理解できる人間が一握りしかいないこともまた事実である。　しばらくして、知人から修理するか否かの催促の電話があった。気乗りしない写真家ではあったが、人に迷惑をかけられないと思い立ち、重い足を引きずるように電話の主のもとへと向かった。道中、「しばらく金ができるまでは車のない生活も良いかな」と自らを納得させようとしていた節がある。そんな矢先、また眼が合ってしまった。　昼下がりから降り始めた雨がしとしとと幌を濡らす。暗がりにブルーが映える英国ロータス社2003年製エリーゼ・フェイズ２の姿があった。ローバー社製1800ccエンジンを搭載した最後期モデルだったように記憶している。写真家の別の「悪い癖」が出ようとしていた。目の前にある新しいものを「最良」と捉えるご都合主義的な思考回路の構築は、稲妻より早く彼の脳天に達していた…………。　　結論から言えば、「悪い癖」で手に入れたエリーゼは２年も経たぬうちにコンクリート塀に衝突させ、FRPボディの性をまざまざと見せつけることに成功した。見るも無残に割れたボディの修復費は実に福沢諭吉翁１２０人分に近くとも遠からず。目の玉が飛び出そうとはこのことで、あまりに高額な支払いに尻込みしてしまい、泣くより早く手放すこととなった。　エリーゼの「最良」については、この日記にわざわざ記さずとも他の手記が雄弁なのに任せるとする。一言だけ私見を弄すれば、その大きな特徴は動物的な、正に野生を提供してくることだろうか。あるメカニックは語る。「ポルシェがより遠くまで、もっと遠くまで足をのばしたくなる車なのに対して、エリーゼは近くでハラハラしたい車。これ、いい意味ですよ！」とのこと。そうかもしれない。　こうして写真家は３台目の車を購入するための切符を手に入れた。悲観すべき事態ではあったが。ただ、それが長く過酷な旅路になろうとは、川縁でごっそりバンパーの落ちたエリーゼを眺めるこのときの彼に予想せよということ自体、まったく不可能な話である。（つづく）]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-02-29T13:28:41+00:00</published><updated>2016-02-29T13:31:39+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><p>　技術と知識とは相反するが故にバランスが不可欠である。写真家は常々そう心に留めてきたつもりでいた。が、自動車のことについては他の多くの日本人と同様、ほとんど何も知らないし、普通自動車免許（中型）以上の技術も持ち合わせていない。ただ、写真家が少し風変わりだったのは現在市販されている自動車にあまり興味が持てず、彼の眼に止まるのは、何十年も前に基本構造が確立された車種か、あるいは地方都市には極端にディーラーの数が少ないものばかりであった。元来泡銭が手に入ると、カメラやレンズ、写真関係機器の購入費に投入してきたことも手伝って、自然と中古車ばかりを選んでいたことも一部起因している。</p><p>　彼が自らの名義で手に入れた初めての自動車は英国ローバー社９６年製のミニ・クーパーメイフェア（１．３ｉ）であった。予てより車を所持するようになったら、そのヤーライ式流線型ボディの魅力をもって、西ドイツ製のフォルクスワーゲン・Type１（ビートル）を求めることに決めていた。元来、維持するための知識や技術など考えることもなかった。まさに悲劇である。２０１０年夏、勇んでアパート近くの中古車業者に相談しに行くと、予想通りそこに実車はなかった。全国の中古車業者に照会してもらう段取りをつけて店から出たときだった。眼が合ってしまったのである。真っ赤な光沢の、小さなボディが真夏の太陽を一身に受けているとさえ思えた。すぐさま引き返し、試乗を頼んで、その日のうちに契約した。いま思い返せば、間違いなく若気の至りであるが、とんとん拍子にことは運び、翌週には納車となった。金額にして４０万円弱。そのほとんどが車検代であったことは言うまでもない。</p><p>　パワーステアリングなどない。恐ろしく小さな車体であるが、小廻りの利かない車であった。しかし、写真家は非常に気に入っていた。泣く子も黙るほど無茶な乗り方をしたことが、当時の彼の日記から想像できる。極限にまで絞り込まれたフォルムに１３００ccものエンジンが搭載され、大人４人が何とか乗り込める設計に潔さを感じていた。一般に旧ミニ（ＢＭＷ社傘下後の新ミニは、ミニではなく「デカ」とでも名付けるべきだ）は、その安全機構のなさから「走る棺桶」と呼ばれている。そのソリッドな思想も彼の性格上の破綻から「最良の選択」と変換されていた。</p><p>　冷却水漏れで煙を出しながら止まったこと、クーラー用のベルトの設置が悪くスイッチを入れた瞬間からけたたましく鳴き始めることには眼をつぶった。この車には良く乗った。２年後に悲劇を経験するまでは。</p><p>　２０１４年夏。いつものように、後の妻を助手背に乗せて走っていると、急に異音がし始めた。凸凹道で急加速・急停止を繰り返していたわけではない。「ギャギャギャギャ！」と明らかに好ましくない音がタイヤ周辺からとどまることなく聞こえている。運悪くその日は購入した中古車業者が定休日。急いで複数の知人にどこか良い修理工場がないか聞いて廻るも、旧車をきちんと扱える場所は思い浮かばないという。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。「もしかすると」くらいの話で一件だけ見つかった。それが主治医との出会いとなった。</p><p>　診断結果は驚くほど単純かつ複雑だった。ベアリング部分の４つともに石が詰まっているとのこと。そして、思わぬことに、その石が重要な箇所を数点破壊してしまっていること。異音は徐々に破壊される部品の断末魔ということであった。修理価格はおよそ３０万円。親切にも、最寄りの修理工場でも対応できるようにと、診断書を無料で書いてくれた。当時大きな支払いの直後で預金がなかったこともあり、暫く知人の自動車販売業者で預かってもらうことにした。問い合わせると、知人のメカニックでも対応できるとのこと。</p><p>悪い癖が出てきた。「この車にあと何年くらい乗りたいのか」、急に分からなくなってしまったのだ。愛着をもって触れてきたものに、恐ろしく冷淡になれるのもまた、彼の特性である。特に道具に対してはことさらその特性は強く生じるように思える。自分の手や眼の延長だと思えるほど慣れ親しんだカメラでさえ、急激に興味を失うことがままある。彼の中では明白に、時々に合わせて「最良」をその岐路ごとに選択しているに他ならなかったが、理解できる人間が一握りしかいないこともまた事実である。</p><p>　しばらくして、知人から修理するか否かの催促の電話があった。気乗りしない写真家ではあったが、人に迷惑をかけられないと思い立ち、重い足を引きずるように電話の主のもとへと向かった。道中、「しばらく金ができるまでは車のない生活も良いかな」と自らを納得させようとしていた節がある。そんな矢先、また眼が合ってしまった。</p><p>　昼下がりから降り始めた雨がしとしとと幌を濡らす。暗がりにブルーが映える英国ロータス社2003年製エリーゼ・フェイズ２の姿があった。ローバー社製1800ccエンジンを搭載した最後期モデルだったように記憶している。写真家の別の「悪い癖」が出ようとしていた。目の前にある新しいものを「最良」と捉えるご都合主義的な思考回路の構築は、稲妻より早く彼の脳天に達していた…………。</p><p>　</p><p>　結論から言えば、「悪い癖」で手に入れたエリーゼは２年も経たぬうちにコンクリート塀に衝突させ、FRPボディの性をまざまざと見せつけることに成功した。見るも無残に割れたボディの修復費は実に福沢諭吉翁１２０人分に近くとも遠からず。目の玉が飛び出そうとはこのことで、あまりに高額な支払いに尻込みしてしまい、泣くより早く手放すこととなった。</p><p>　エリーゼの「最良」については、この日記にわざわざ記さずとも他の手記が雄弁なのに任せるとする。一言だけ私見を弄すれば、その大きな特徴は動物的な、正に野生を提供してくることだろうか。あるメカニックは語る。「ポルシェがより遠くまで、もっと遠くまで足をのばしたくなる車なのに対して、エリーゼは近くでハラハラしたい車。これ、いい意味ですよ！」とのこと。そうかもしれない。</p><p>　こうして写真家は３台目の車を購入するための切符を手に入れた。悲観すべき事態ではあったが。ただ、それが長く過酷な旅路になろうとは、川縁でごっそりバンパーの落ちたエリーゼを眺めるこのときの彼に予想せよということ自体、まったく不可能な話である。（つづく）</p><p></p>
		</div>
	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[蟲日記　序章ーその１]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/558120/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/85c399afd792fb728dcb50530c019166_ce9ec8e70852d400c83c76d7f90822a3.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/558120</id><summary><![CDATA[「ものすっごくオイリーですね！」　蟲の下に潜り込んでいた主治医が叫ぶように言い放った。時折エンジン音で言葉の端が掻き消されるが、問題点の全容は聞き取れる。年齢の分からない白髪にBOSHのメカニカルジャンパー、節立った指からは、もう何台もの蟲を手術台の上でさばいてきた様子がわかる。　ボボボボボ……ボボボズズズボボ……　蟲の尾に付いた1200ccD型エンジンから流れて来る咳込んだような異音混じりのアイドリング音が耳を突く。「ダメですか？」つい半年前に購入したばかりの中古車の行末。顔に不安の色を隠せずにいる。無理もない。購入時、「一応の点検」と言われ知人の自動車屋から３ヵ月経っても手元に来ることのなかった機体であった。しびれを切らし半ば奪い取るように持ち帰ったが、老メカニックから一言、「エンジンの調子は悪くないんですがね」。安かろう悪かろうとは言うが、どのくらいのものか一切分からず仕舞いで納車となった。分かっているのは、1975年西ドイツ製、フォルクスワーゲンtype1、1200ccスタンダード、D型という車検証に書いてある文字情報だけである。　ボボンボボン……。バス…。「あ、止まった」。今の自動車では考えられない状況が眼の前で起きていた。　交差点でアイドリングしなくなる。三速から二速に落とす際にギヤアと鳴く。坂を登ればノッキングを起し、後部から他の車に追突されたような衝撃が来る。スピードを落とすとエンジンが止まる。フューエルタンクをガソリンで満タンにしても、メーターが3／4ほどしか指さない。ハザードランプが付かない。カーラジオがつかない（CMコンポなんてない！）。と、挙げれば切りがない。　主治医とともにエンジンルームに目を配らせるがその実、ほとんど何をチェックしているのかすら分かっていない。それほどの素人である。　クラシックカーと言えば聞こえは良いが、「40年落ちの輸入車」と言えば、それも納得してしまえる。何年落ちと、クラシックカーとの呼び名の境い目ははっきりとしていないことが良く分かる。　主治医がラチェットレンチをガリガリ廻して黒いエンジンの端から瞬く間に四本のドリルの先っぽみたいな白色の部品を取り出した。接続部と思しきネジ。その中心部が黒く焼けている。「火の飛び方がおかしいんでね。見てもらえれば分かりますが、四気筒車なのに、一つ死んでますね。いま、三気筒です。」とても面白いことのようだが、何を言っているのか分からない。「あとね、番号がちがいますね」と。どうやらスパークプラグと呼ばれる点火部品の不調という意味らしい。「これね、私たちはベスパに使うやつが入ってるんですよ、いま。」ベスパ！？　耳を疑うとはこのことだ。普通車の部品が50ccスクーターで代用できるものなのか、目の前が暗くなりそうだった。主治医はなおも傷口をえぐりに来る。「そりゃあ火は飛びますがね。異常ですよ。少し見ただけで、やっつけ仕事、到底玄人が触ったとは思えませんね。何となくエンジンを始動させるのに成功したレベルです。」とても嬉しそうに話す。いま、主治医の眼前には、格好の被験体が止まっているのだろう。「色々間違った修理をしちゃってますね！　ええ、どこから触ればいいのか分からない！」尚も嬉しげである。一瞬ゴミ山かと疑いたくなる作業部屋で主治医は、ダンボールを引っ掻き廻しながら「正しい番号」のプラグを四本出してきて手際良く収めた。鍵を廻すと、蟲に火が付く。プオオオ……ドルン…ボボボボボ…………。　今度はすぐにエンジンを止め、工場の方へと消える。作業部屋の奥とつながっている広々とした工場。何台ものクラシックカーが並ぶ。ポルシェ911、MG、スバル360、ルノー4、シトロエン……。どれも修理中だ。　暫くして、主治医はポットに粘度の高そうなオイルを入れて揚々と戻ってきた。「納車半年ですよ？まだ指定された走行距離に達していないんですが。」そう訴える私を見返しながら、にこりと「もうその数値意味ないですよ！ほとんど抜けてますから！」よくもこれまで走れたものだ。写真家は黒光りする蟲の尾を眺めているしかなかった。（つづく）]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-02-21T15:19:20+00:00</published><updated>2016-02-21T15:19:20+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>「ものすっごくオイリーですね！」</p><p>　蟲の下に潜り込んでいた主治医が叫ぶように言い放った。時折エンジン音で言葉の端が掻き消されるが、問題点の全容は聞き取れる。年齢の分からない白髪にBOSHのメカニカルジャンパー、節立った指からは、もう何台もの蟲を手術台の上でさばいてきた様子がわかる。</p><p>　ボボボボボ……ボボボズズズボボ……</p><p>　蟲の尾に付いた1200ccD型エンジンから流れて来る咳込んだような異音混じりのアイドリング音が耳を突く。</p><p>「ダメですか？」つい半年前に購入したばかりの中古車の行末。顔に不安の色を隠せずにいる。無理もない。購入時、「一応の点検」と言われ知人の自動車屋から３ヵ月経っても手元に来ることのなかった機体であった。しびれを切らし半ば奪い取るように持ち帰ったが、老メカニックから一言、「エンジンの調子は悪くないんですがね」。安かろう悪かろうとは言うが、どのくらいのものか一切分からず仕舞いで納車となった。分かっているのは、1975年西ドイツ製、フォルクスワーゲンtype1、1200ccスタンダード、D型という車検証に書いてある文字情報だけである。</p><p>　ボボンボボン……。バス…。「あ、止まった」。今の自動車では考えられない状況が眼の前で起きていた。</p><p>　交差点でアイドリングしなくなる。三速から二速に落とす際にギヤアと鳴く。坂を登ればノッキングを起し、後部から他の車に追突されたような衝撃が来る。スピードを落とすとエンジンが止まる。フューエルタンクをガソリンで満タンにしても、メーターが3／4ほどしか指さない。ハザードランプが付かない。カーラジオがつかない（CMコンポなんてない！）。と、挙げれば切りがない。</p><p>　主治医とともにエンジンルームに目を配らせるがその実、ほとんど何をチェックしているのかすら分かっていない。それほどの素人である。</p><p>　クラシックカーと言えば聞こえは良いが、「40年落ちの輸入車」と言えば、それも納得してしまえる。何年落ちと、クラシックカーとの呼び名の境い目ははっきりとしていないことが良く分かる。</p><p>　主治医がラチェットレンチをガリガリ廻して黒いエンジンの端から瞬く間に四本のドリルの先っぽみたいな白色の部品を取り出した。接続部と思しきネジ。その中心部が黒く焼けている。「火の飛び方がおかしいんでね。見てもらえれば分かりますが、四気筒車なのに、一つ死んでますね。いま、三気筒です。」とても面白いことのようだが、何を言っているのか分からない。「あとね、番号がちがいますね」と。どうやらスパークプラグと呼ばれる点火部品の不調という意味らしい。「これね、私たちはベスパに使うやつが入ってるんですよ、いま。」ベスパ！？　耳を疑うとはこのことだ。普通車の部品が50ccスクーターで代用できるものなのか、目の前が暗くなりそうだった。主治医はなおも傷口をえぐりに来る。「そりゃあ火は飛びますがね。異常ですよ。少し見ただけで、やっつけ仕事、到底玄人が触ったとは思えませんね。何となくエンジンを始動させるのに成功したレベルです。」とても嬉しそうに話す。いま、主治医の眼前には、格好の被験体が止まっているのだろう。「色々間違った修理をしちゃってますね！　ええ、どこから触ればいいのか分からない！」尚も嬉しげである。一瞬ゴミ山かと疑いたくなる作業部屋で主治医は、ダンボールを引っ掻き廻しながら「正しい番号」のプラグを四本出してきて手際良く収めた。鍵を廻すと、蟲に火が付く。プオオオ……ドルン…ボボボボボ…………。</p><p>　今度はすぐにエンジンを止め、工場の方へと消える。作業部屋の奥とつながっている広々とした工場。何台ものクラシックカーが並ぶ。ポルシェ911、MG、スバル360、ルノー4、シトロエン……。どれも修理中だ。</p><p>　暫くして、主治医はポットに粘度の高そうなオイルを入れて揚々と戻ってきた。</p><p>「納車半年ですよ？まだ指定された走行距離に達していないんですが。」そう訴える私を見返しながら、にこりと「もうその数値意味ないですよ！ほとんど抜けてますから！」よくもこれまで走れたものだ。写真家は黒光りする蟲の尾を眺めているしかなかった。（つづく）</p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[うしくんの名前]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/539374/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/e7a8bd53cc8f944567259a58a9b2e7c4_1b213d92c1c3cc682f40999fddf6e10c.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/539374</id><summary><![CDATA[　吾輩はうしくんである。名前はすでにうしくんである。吾輩の体躯はうまれつきやわらかい。今やじゅうぶんすぎる肉でおおわれているその上には、これもうまれつきの黒色のぶちがある。このぶちによって吾輩はうしと名付けられた。うしと名付けられても吾輩は人間（猫）だから、そんなに乳は出ない。現代の栄養過多のペットフードで肥えた吾輩は、しかし不覚にも腹に肉を余して、歩く四肢の間でそれが具合よく揺れる。その様はうしの名に足るであろう。まったく不覚である。　もっとも吾輩の主人は「鸕詩」という難解な字を吾輩にあてているようだ。「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊（ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと）」の一文字を拝借している。曰く、吾輩を神武天皇よりえらくしたかったのだという。吾輩は土佐の山奥で生れ、そのまま一生を終えようとしていたところを何の加護か助かった身である。高貴な生まれではない。ありがたい字を頂戴しても、吾輩にはそれがどれほどのものかわからない。今はあたたかいヒーターの前で身を溶かしているから、ヒーターよりはありがたいのだろうかと想像するしかない。]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-02-15T14:36:46+00:00</published><updated>2016-02-15T14:36:46+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p>　吾輩はうしくんである。名前はすでにうしくんである。吾輩の体躯はうまれつきやわらかい。今やじゅうぶんすぎる肉でおおわれているその上には、これもうまれつきの黒色のぶちがある。このぶちによって吾輩はうしと名付けられた。うしと名付けられても吾輩は人間（猫）だから、そんなに乳は出ない。現代の栄養過多のペットフードで肥えた吾輩は、しかし不覚にも腹に肉を余して、歩く四肢の間でそれが具合よく揺れる。その様はうしの名に足るであろう。まったく不覚である。</p><p>　もっとも吾輩の主人は「鸕詩」という難解な字を吾輩にあてているようだ。「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊（ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと）」の一文字を拝借している。曰く、吾輩を神武天皇よりえらくしたかったのだという。吾輩は土佐の山奥で生れ、そのまま一生を終えようとしていたところを何の加護か助かった身である。高貴な生まれではない。ありがたい字を頂戴しても、吾輩にはそれがどれほどのものかわからない。今はあたたかいヒーターの前で身を溶かしているから、ヒーターよりはありがたいのだろうかと想像するしかない。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/e7a8bd53cc8f944567259a58a9b2e7c4_1b213d92c1c3cc682f40999fddf6e10c.jpg?width=960" width="100%">
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]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[fusée／fusée molの配布について]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/539222/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/15173209acc99b671dadee7883a8f38e_14e776c6044a780925a09fb98d07ab92.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/539222</id><summary><![CDATA[　2015年5月に創刊したfusée、その2年前に発行した創刊準備号と今年1月末にスタートした姉妹誌fusée molは多くのご協力を得て松山市内のカフェ、バー、古書店、専門学校に設置しております。また、愛媛県立図書館の蔵書として閲覧することができます。本誌は無料配布いたしておりますので、ご笑覧いただける方を募集しています。ご連絡は下記メールアドレスまで。shiomi.toshihiro@gmail.com（JEMM1711編集部・塩見方）]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-02-15T13:44:04+00:00</published><updated>2016-02-15T13:44:04+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>　2015年5月に創刊したfusée、その2年前に発行した創刊準備号と今年1月末にスタートした姉妹誌fusée molは多くのご協力を得て松山市内のカフェ、バー、古書店、専門学校に設置しております。また、愛媛県立図書館の蔵書として閲覧することができます。本誌は無料配布いたしておりますので、ご笑覧いただける方を募集しています。ご連絡は下記メールアドレスまで。shiomi.toshihiro@gmail.com（JEMM1711編集部・塩見方）</p><p><br></p>
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]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[写真雑誌「fusée」の創刊と姉妹誌 「fusée mol」の発行開始について]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/532229/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/bf3bcb98f59a24ebe5b4000bc098b6ad_6fdfd0b7d50de40857470c8079870388.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/532229</id><summary><![CDATA[　ここに2012年末に記したメモがある。　……昨今、デジタルカメラの隆盛に伴い、写真文化は非常に身近な存在となった。かつて、一部の技術者を指す言葉だった「写真家」は、もはや特別な職種・生き方を示すものではなくなったように思える。誤解を恐れずに言えば、一億総「フォトグラファー」の時代だ。　一方、写真文化に眼を向けてみると、それ自体は生まれ出でて四足で立てぬうちからすでに人々の欲望を満たす使命を背負い、貨幣経済の一構成要素として存在していたことに気がつく。もっと正確に表現すれば、欲望の臭気を嗅ぎ取って経済が忍び寄ってきたと解釈すべきかもしれない。が、この欲望と経済という二つの要素はあまりにも近接しすぎていて、鶏と卵の論争を始めかねない。　問題は、欲望の内容である。そもそも写真の誕生は、科学的に陰影が構造的に安定した媒体に定着できることを偶然に発見した事実があるにせよ、眼前の風景を懐中にとどめたい欲求が多分に先行していたことは間違いない。写真史の黎明期に名刺版のブロマイドが数多くの写真館で撮影され、世に出回ったこと、やや遡れば、カメラオブスキュラの運用そのものが絵画における立体感を補助する機械であったことからも明白である。元来人間は、写真に「こうあってほしい」ことを願い続けてきた。と同時に欲望を満たす構造は機械技術の革新という形で昇華し、その副産物たる製品を我々に供給してきたわけである。ここに写真産業という巨大な市場が完成した。　技術の進歩（＝カメラの機械的技術革新であったり新感光材の開発であったり）は、欲望を原動力に日々生まれ変わり、新たな表現形式を写真家に提供する代償を、膨れ上がる市場経済の中に還元した。周知の通りこの状況はデジタル時代を迎えてもなお変わることなく、むしろそのスピードを増し、規模を拡大した。　しかして、写真が表現を口にするとき、その隣にはいつも貨幣経済がいたと言えよう。すべからく市場主義に編入される世界の中にあって、何も写真だけが特別な存在なのではない。しかし、絵画や音楽に比べれば圧倒的に、その成立段階から、あるいは発生段階から経済との結びつきを強めていたという点においてはやや特殊かもしれない……　　ほぼ同時期の別のメモには次のように書いていた。　……私は長い間、強い違和感を覚えてきた。日本の写真文化を語る上で、カメラ雑誌が写真雑誌に比べて圧倒的に多い状況に、何かいやったらしい空気を吸い込むような気がしてならなかった。技術は進歩したはずだ。それと同義のように市場も飽和したはずだ。2000年代の初頭には世界を認識する術とうそぶいて、自称「女の子」たちに半径３メートル圏内のキッチュを大量に生産させたはずだ。人々はカラーコピー機でポートフォリオを気軽に作成できる方法を覚えたはずだ。インターネットが普及する頃には世界を相手にいわゆる「個の表出」が可能になったはずだ。それにも関わらず、写真家の発表の場は依然内向きである。私にとっては実にいやったらしい空気に思われた……　2013年が始まり、私は大学時代からの友人カンちゃんと後輩で松山のデザイナー塩見敏弘君に相談を持ちかけることにした。　　①	新たな写真の発表媒体を作ること。　　②	それは旧来から行われているものと形式的には何ら変わらないものであること。　　③	形式は極力簡素にし、言葉をなるべく使わないようにすること。　　④	スポンサーにたよらず、経済の流れと出来るだけ関わり合いを持たずにすむ方法であること。　どれくらい話し合ったかは忘れてしまったが、割と長い時間をかけたように思う。以上の４つの要素を満たす方法は手弁当で発行する同人雑誌が適しているのではないかと結論付けた。「できるだけ若手が集るような媒体にしたいね」と、写真という霧が立ちこめる小さな丘からあげる烽火（のろし）を意識し、表題をフランス語（写真の発祥地！）で「fusée」（フュゼ）と決めた。当初は季刊と考えていたが、年１回の発行と、その間を埋めるように「mol」（＝分子）を散りばめる手法に転化し現在に至る。　同人誌の発行に際し、先人たちが到達した暗闇についてまったく留意しなかったわけではない。無論、写真同人誌「プロボーク」がわずか数刊で廃刊したことを念頭に入れなかったわけではない。　プロボークは1968～70年に発行された写真同人誌で、中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦といた正に時代の寵児が始め、２号から森山大道も参加している。「アレ、ブレ、ボケ」の三拍子揃ったコンポラ写真の見本雑誌であったし、本人たちが自覚していたようにあくまで「挑発的資料」の役割は果たしていた。が、短命に終わった企画には違いない。中平はこの雑誌の総括として自著「なぜ植物図鑑か」（1973、晶文社）で【…】「多分、私は二度と写真による同人誌などには参加しないだろう。そうすることによって生じるある種の自己満足などはしょせんドラスティックな現実からの逃亡をしか意味しないだろう、また私が出張するみずからの生の記録としての写真も一度マス・メディアを通した時、それは私の生の直接性からは遠くへだたった制度的な視覚の中に、その一つとしてまたたく間に翻訳されていってしまうのだ。」【…】と自戒の念を連ねている。中平の自弁については別の機会に考察するにせよ、この言説は一つの到達点であった。　確かに、方向性の異なる写真家が大雑把に同軸上の思想の下で発表形式にのみ縛られるのであれば、縛り上げた横からほころび始めるのは避けようもない。そういった意味でもプロボークは恐ろしく律儀で、同時に恐ろしく無責任な媒体でもあった。　しかし、20世紀末から21世紀初頭にかけての混沌とした写真表現を嫌というほど肌で感じている私たちは、中平が言うような「作品とはしょせん創り終えた時からおれの手を離れてまったく別の生き物だと言いきることによって、あるいはつながるかもしれぬ不確かなコミュニケーションの蓋然性にまかせる姿勢はあまりにも楽天的過ぎることである」（同）との指摘を直視しようと思う。　すなはち、写真は創作ではないこと、言葉のあらゆる束縛が写真の中に作り出す文脈への決闘を申し込むこと、解釈という名のご都合主義的なコミュニケーションに甘んじぬことを肝に銘じ、一瞬の知覚と素肌を振るわせる生の揺らぎを求めようと思う。　私たちは烽火をあげることにした。丘の上から烽火をあげる。他の丘から返答の烽火があがるまで、細く長くのびる煙を絶やすことのないように。（2016.2.13）]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-02-12T15:52:46+00:00</published><updated>2016-02-12T15:52:46+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p class="">　ここに2012年末に記したメモがある。</p><p class="">　……昨今、デジタルカメラの隆盛に伴い、写真文化は非常に身近な存在となった。かつて、一部の技術者を指す言葉だった「写真家」は、もはや特別な職種・生き方を示すものではなくなったように思える。誤解を恐れずに言えば、一億総「フォトグラファー」の時代だ。</p><p>　一方、写真文化に眼を向けてみると、それ自体は生まれ出でて四足で立てぬうちからすでに人々の欲望を満たす使命を背負い、貨幣経済の一構成要素として存在していたことに気がつく。もっと正確に表現すれば、欲望の臭気を嗅ぎ取って経済が忍び寄ってきたと解釈すべきかもしれない。が、この欲望と経済という二つの要素はあまりにも近接しすぎていて、鶏と卵の論争を始めかねない。</p><p class="">　問題は、欲望の内容である。そもそも写真の誕生は、科学的に陰影が構造的に安定した媒体に定着できることを偶然に発見した事実があるにせよ、眼前の風景を懐中にとどめたい欲求が多分に先行していたことは間違いない。写真史の黎明期に名刺版のブロマイドが数多くの写真館で撮影され、世に出回ったこと、やや遡れば、カメラオブスキュラの運用そのものが絵画における立体感を補助する機械であったことからも明白である。元来人間は、写真に「こうあってほしい」ことを願い続けてきた。と同時に欲望を満たす構造は機械技術の革新という形で昇華し、その副産物たる製品を我々に供給してきたわけである。ここに写真産業という巨大な市場が完成した。</p><p class="">　技術の進歩（＝カメラの機械的技術革新であったり新感光材の開発であったり）は、欲望を原動力に日々生まれ変わり、新たな表現形式を写真家に提供する代償を、膨れ上がる市場経済の中に還元した。周知の通りこの状況はデジタル時代を迎えてもなお変わることなく、むしろそのスピードを増し、規模を拡大した。</p><p>　しかして、写真が表現を口にするとき、その隣にはいつも貨幣経済がいたと言えよう。すべからく市場主義に編入される世界の中にあって、何も写真だけが特別な存在なのではない。しかし、絵画や音楽に比べれば圧倒的に、その成立段階から、あるいは発生段階から経済との結びつきを強めていたという点においてはやや特殊かもしれない……</p><p class="">　</p><p>　ほぼ同時期の別のメモには次のように書いていた。</p><p class="">　……私は長い間、強い違和感を覚えてきた。日本の写真文化を語る上で、カメラ雑誌が写真雑誌に比べて圧倒的に多い状況に、何かいやったらしい空気を吸い込むような気がしてならなかった。技術は進歩したはずだ。それと同義のように市場も飽和したはずだ。2000年代の初頭には世界を認識する術とうそぶいて、自称「女の子」たちに半径３メートル圏内のキッチュを大量に生産させたはずだ。人々はカラーコピー機でポートフォリオを気軽に作成できる方法を覚えたはずだ。インターネットが普及する頃には世界を相手にいわゆる「個の表出」が可能になったはずだ。それにも関わらず、写真家の発表の場は依然内向きである。私にとっては実にいやったらしい空気に思われた……</p><p class="">　2013年が始まり、私は大学時代からの友人カンちゃんと後輩で松山のデザイナー塩見敏弘君に相談を持ちかけることにした。</p><p><br></p><p>　　①	新たな写真の発表媒体を作ること。</p><p>　　②	それは旧来から行われているものと形式的には何ら変わらないものであること。</p><p class="">　　③	形式は極力簡素にし、言葉をなるべく使わないようにすること。</p><p>　　④	スポンサーにたよらず、経済の流れと出来るだけ関わり合いを持たずにすむ方法であること。</p><p class="">　どれくらい話し合ったかは忘れてしまったが、割と長い時間をかけたように思う。以上の４つの要素を満たす方法は手弁当で発行する同人雑誌が適しているのではないかと結論付けた。「できるだけ若手が集るような媒体にしたいね」と、写真という霧が立ちこめる小さな丘からあげる烽火（のろし）を意識し、表題をフランス語（写真の発祥地！）で「fusée」（フュゼ）と決めた。当初は季刊と考えていたが、年１回の発行と、その間を埋めるように「mol」（＝分子）を散りばめる手法に転化し現在に至る。</p><p class="">　同人誌の発行に際し、先人たちが到達した暗闇についてまったく留意しなかったわけではない。無論、写真同人誌「プロボーク」がわずか数刊で廃刊したことを念頭に入れなかったわけではない。</p><p class="">　プロボークは1968～70年に発行された写真同人誌で、中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦といた正に時代の寵児が始め、２号から森山大道も参加している。「アレ、ブレ、ボケ」の三拍子揃ったコンポラ写真の見本雑誌であったし、本人たちが自覚していたようにあくまで「挑発的資料」の役割は果たしていた。が、短命に終わった企画には違いない。中平はこの雑誌の総括として自著「なぜ植物図鑑か」（1973、晶文社）で【…】「多分、私は二度と写真による同人誌などには参加しないだろう。そうすることによって生じるある種の自己満足などはしょせんドラスティックな現実からの逃亡をしか意味しないだろう、また私が出張するみずからの生の記録としての写真も一度マス・メディアを通した時、それは私の生の直接性からは遠くへだたった制度的な視覚の中に、その一つとしてまたたく間に翻訳されていってしまうのだ。」【…】と自戒の念を連ねている。中平の自弁については別の機会に考察するにせよ、この言説は一つの到達点であった。</p><p>　確かに、方向性の異なる写真家が大雑把に同軸上の思想の下で発表形式にのみ縛られるのであれば、縛り上げた横からほころび始めるのは避けようもない。そういった意味でもプロボークは恐ろしく律儀で、同時に恐ろしく無責任な媒体でもあった。</p><p>　しかし、20世紀末から21世紀初頭にかけての混沌とした写真表現を嫌というほど肌で感じている私たちは、中平が言うような「作品とはしょせん創り終えた時からおれの手を離れてまったく別の生き物だと言いきることによって、あるいはつながるかもしれぬ不確かなコミュニケーションの蓋然性にまかせる姿勢はあまりにも楽天的過ぎることである」（同）との指摘を直視しようと思う。</p><p class="">　すなはち、写真は創作ではないこと、言葉のあらゆる束縛が写真の中に作り出す文脈への決闘を申し込むこと、解釈という名のご都合主義的なコミュニケーションに甘んじぬことを肝に銘じ、一瞬の知覚と素肌を振るわせる生の揺らぎを求めようと思う。</p><p>　私たちは烽火をあげることにした。丘の上から烽火をあげる。他の丘から返答の烽火があがるまで、細く長くのびる煙を絶やすことのないように。</p><p>（2016.2.13）<br></p>
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	]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[うしくん参上]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/520775/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/0acc9686eba3eaa0a9bb6aa74fb18c97_eee9572beeba0874c4b1e92091d4fbf8.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/520775</id><summary><![CDATA[吾輩はうしくんである。名前はすでにうしくんである。全長およそ１尺６寸５分（約50センチ）、目方（体重）およそ１貫600匁（約6キロ）にまで成長した。爾来、飯時日に２度なれど現代のペットフード甚だ栄養過多也。これもまた愛猫家を自負する愚親によるところである。この飼い主の休日は不可解千万である。なにやらおもむろに黒色の箱を袋詰めしては、愛猫家どこへやら吾輩のことなどは居なかったものとして家の外へでていってしまうのである。吾輩はここに、この不思議な、実に不自然な主について記していこうと思う。うなー]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-02-08T15:18:28+00:00</published><updated>2016-02-08T15:23:31+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>吾輩はうしくんである。名前はすでにうしくんである。全長およそ１尺６寸５分（約50センチ）、目方（体重）およそ１貫600匁（約6キロ）にまで成長した。爾来、飯時日に２度なれど現代のペットフード甚だ栄養過多也。これもまた愛猫家を自負する愚親によるところである。この飼い主の休日は不可解千万である。なにやらおもむろに黒色の箱を袋詰めしては、愛猫家どこへやら吾輩のことなどは居なかったものとして家の外へでていってしまうのである。</p><p>吾輩はここに、この不思議な、実に不自然な主について記していこうと思う。うなー<br></p>
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]]></content><rights>伊豆野　眸</rights></entry><entry><title><![CDATA[森と嵐]]></title><link rel="alternate" href="https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/518125/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/112958/d5ffaf178b70ded50339838476cfb518_a06b827a8401d1ca49ddc5fd62d1c146.jpg"></link><id>https://hitomi-izuno.themedia.jp/posts/518125</id><summary><![CDATA[　眼前の世界を再認識しようとする試みはイメージや主題、シンボルといった解釈上の共通言語を解して行われることを前提とする限り、必ずといって良いくらい、一定の時期を迎えると巨大な障壁に突き当たってしまいます。それら解釈言語が尽きた場合、あるいは解釈できない問題に出会う場合があるからです。また、連続的に認識されるはずの視覚映像の場合、写真に定着すればするほど、時間の静止（時間起点t1‐終点t１′間：映画の場合も写真よりも映し出された時間が多少長いだけで、基本的には断片的な時間軸しか持ち合わせていないのです）という機能的制約の枠を飛び出すことは出来ません。　このことは森の中を歩き回るとより一層はっきりとします。樹木の根元を照らし出す木漏れ日や、風に揺られる幾多の穂、苔むす岩、枝の脇から見える雲のどれ一つをとっても二度と同じ瞬間はなく、そこには容赦なく突き進む時の流れしかありません。まるで海を呑み込む嵐を見続けるようなものです。この激しく変化する時間の断片を等価的に捉えることは不可能に思えるばかりか、ドラマチックでダイナミックな印象を与える一枚の写真が与える効果について私は一方的な弁論を聞き続けるのに似た感覚に陥ってしまうのです。　写真の本質としてまことしやかに伝わっている、〈表現〉と〈記録〉の背反事象もまた、写真を語りにくくさせている要因に思えて仕方ありません。私はこれまでことあるごとに「写真の芸術性」、「写真表現」という言葉を否定してきました。これは「写真とはかくあるべき」というイデオロギーではなく、〈個人の記録〉を重視する一見解なのです。　無限に広がる世界の一側面を定着するにとどまる撮影者のあてどない旅は、決して終わることはありません。一方で私たちは新たな言語を得ようとしています。絶えず変化しつづける、脆さや危うささえも内包した映像の群れが、他でもない「そのもの」として存在しつづけることで、ようやく写真は概念を代弁することのない自由な〈言語〉として成立するのです。（「森と嵐」２０１３．９）]]></summary><author><name>伊豆野　眸</name></author><published>2016-02-07T14:08:09+00:00</published><updated>2016-02-08T13:40:06+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p class="">　眼前の世界を再認識しようとする試みはイメージや主題、シンボルといった解釈上の共通言語を解して行われることを前提とする限り、必ずといって良いくらい、一定の時期を迎えると巨大な障壁に突き当たってしまいます。それら解釈言語が尽きた場合、あるいは解釈できない問題に出会う場合があるからです。また、連続的に認識されるはずの視覚映像の場合、写真に定着すればするほど、時間の静止（時間起点t1‐終点t１′間：映画の場合も写真よりも映し出された時間が多少長いだけで、基本的には断片的な時間軸しか持ち合わせていないのです）という機能的制約の枠を飛び出すことは出来ません。</p><p class="">　このことは森の中を歩き回るとより一層はっきりとします。樹木の根元を照らし出す木漏れ日や、風に揺られる幾多の穂、苔むす岩、枝の脇から見える雲のどれ一つをとっても二度と同じ瞬間はなく、そこには容赦なく突き進む時の流れしかありません。まるで海を呑み込む嵐を見続けるようなものです。この激しく変化する時間の断片を等価的に捉えることは不可能に思えるばかりか、ドラマチックでダイナミックな印象を与える一枚の写真が与える効果について私は一方的な弁論を聞き続けるのに似た感覚に陥ってしまうのです。</p><p class="">　写真の本質としてまことしやかに伝わっている、〈表現〉と〈記録〉の背反事象もまた、写真を語りにくくさせている要因に思えて仕方ありません。私はこれまでことあるごとに「写真の芸術性」、「写真表現」という言葉を否定してきました。これは「写真とはかくあるべき」というイデオロギーではなく、〈個人の記録〉を重視する一見解なのです。</p><p>　無限に広がる世界の一側面を定着するにとどまる撮影者のあてどない旅は、決して終わることはありません。一方で私たちは新たな言語を得ようとしています。絶えず変化しつづける、脆さや危うささえも内包した映像の群れが、他でもない「そのもの」として存在しつづけることで、ようやく写真は概念を代弁することのない自由な〈言語〉として成立するのです。（「森と嵐」２０１３．９）</p>
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