opinion
烽火
わたしの目の前には、確かな存在が誰の了承を得る必要もなく、立っている。
それぞれの土地が持つ印象は必ずしも分かりやすく現れたりはしないし、共感を得るために解説できるものでもない。一方これもまた間違いなく、風景は等価に存在している。各々に力の差はなく人々を内包するかのように見えるし、その反面、強烈に拒絶している。
これらの特性はすべて地霊(=ゲニウス・ロキ)によって定められていると言い切っても過ぎることはない。あるいは、特性が地霊を産み出していると言い換えることもできよう。
「個性の見える写真」または「写真が示す個性」という安直な論理がいかに無批判的に享受されてきたか計り知れない。何度も言うが「かくあるべき風景」などというものは存在しない。見たいように、見せたいように在りはしない。写真の指示性はあくまで「そこに何があるか」を提示するのみであり楽天的な主観論がその本質を言い当てるはずがないのは明白である。仮に一枚の写真において、そこに写し出された一本のナイフを手に取る男の表象は、これから生命を奪おうとする凶悪な犯罪者でありえるし、自殺しようとする女から凶器を取り上げた悲壮な恋人でありえる。つまり、与えられた文脈こそ発生しては瞬く間に別の、真逆のものへと変質する宿命を帯びている。写真は創作ではない。過ぎるほどに雄弁なのは、純然たる過去の映像であると信じられているからである。
わたしたちは写真の持つ記録性を転用した嘘くさいドキュメンタリーを嫌というほど味わってきた。実際に見たことも聞いたことも触れたこともない風景をあたかも、そこに提示された様式に沿って認知することがモラルだといわんばかりに、疑うこともなく見過ごしてきた。あらゆる事物に対して、納得できる物語を欲してきた。老婆の皺に彼女の人生すべてを見出すような不毛な言説であろうとなかろうと、あたかも「社会的」の一言に免罪符を見出すように。大量に消費し、同様に放棄してきたのは、なにも家電製品だけではない。視覚を、認識するという行為をことごとく平均化する作業にあまりにも膨大な時間を費やしてきたのである。個々人の記憶が同等に扱われることはないが、事実現れた事柄そのものは意味を失えば実に等価である。差異は要素の組み合わせに過ぎない。
確かに写真は物事と認識する主体との間を一層近づけたことは疑いようがない。しかし、言語体系の英知をもってしても説明しがたい原始的な感覚をわたしたちは知っている。瞬間的な忌避の念と共存する絶え間なく皮膚を揺さぶる生の悦びである。ノスタルジーに追い立てられる必要はない。進歩的な思想も、アポロ的な調和の美も見出す必要はない。他に置換されないフォルムが要素として成立しているにも関わらず、不自然な文脈を持たせようと這い上がる言語に席を譲る必要はない。
言葉の箱庭より外に出て、ようやく写真は本質を取り返し、知覚の術となる。
伊豆野 眸 『Fusée mol:01』(2016.1.30)