森と嵐

 眼前の世界を再認識しようとする試みはイメージや主題、シンボルといった解釈上の共通言語を解して行われることを前提とする限り、必ずといって良いくらい、一定の時期を迎えると巨大な障壁に突き当たってしまいます。それら解釈言語が尽きた場合、あるいは解釈できない問題に出会う場合があるからです。また、連続的に認識されるはずの視覚映像の場合、写真に定着すればするほど、時間の静止(時間起点t1‐終点t1′間:映画の場合も写真よりも映し出された時間が多少長いだけで、基本的には断片的な時間軸しか持ち合わせていないのです)という機能的制約の枠を飛び出すことは出来ません。

 このことは森の中を歩き回るとより一層はっきりとします。樹木の根元を照らし出す木漏れ日や、風に揺られる幾多の穂、苔むす岩、枝の脇から見える雲のどれ一つをとっても二度と同じ瞬間はなく、そこには容赦なく突き進む時の流れしかありません。まるで海を呑み込む嵐を見続けるようなものです。この激しく変化する時間の断片を等価的に捉えることは不可能に思えるばかりか、ドラマチックでダイナミックな印象を与える一枚の写真が与える効果について私は一方的な弁論を聞き続けるのに似た感覚に陥ってしまうのです。

 写真の本質としてまことしやかに伝わっている、〈表現〉と〈記録〉の背反事象もまた、写真を語りにくくさせている要因に思えて仕方ありません。私はこれまでことあるごとに「写真の芸術性」、「写真表現」という言葉を否定してきました。これは「写真とはかくあるべき」というイデオロギーではなく、〈個人の記録〉を重視する一見解なのです。

 無限に広がる世界の一側面を定着するにとどまる撮影者のあてどない旅は、決して終わることはありません。一方で私たちは新たな言語を得ようとしています。絶えず変化しつづける、脆さや危うささえも内包した映像の群れが、他でもない「そのもの」として存在しつづけることで、ようやく写真は概念を代弁することのない自由な〈言語〉として成立するのです。(「森と嵐」2013.9)

Colline de brouillard 霧の丘

写真家・伊豆野 眸の公式サイト

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