写真雑誌「fusée」の創刊と姉妹誌 「fusée mol」の発行開始について
ここに2012年末に記したメモがある。
……昨今、デジタルカメラの隆盛に伴い、写真文化は非常に身近な存在となった。かつて、一部の技術者を指す言葉だった「写真家」は、もはや特別な職種・生き方を示すものではなくなったように思える。誤解を恐れずに言えば、一億総「フォトグラファー」の時代だ。
一方、写真文化に眼を向けてみると、それ自体は生まれ出でて四足で立てぬうちからすでに人々の欲望を満たす使命を背負い、貨幣経済の一構成要素として存在していたことに気がつく。もっと正確に表現すれば、欲望の臭気を嗅ぎ取って経済が忍び寄ってきたと解釈すべきかもしれない。が、この欲望と経済という二つの要素はあまりにも近接しすぎていて、鶏と卵の論争を始めかねない。
問題は、欲望の内容である。そもそも写真の誕生は、科学的に陰影が構造的に安定した媒体に定着できることを偶然に発見した事実があるにせよ、眼前の風景を懐中にとどめたい欲求が多分に先行していたことは間違いない。写真史の黎明期に名刺版のブロマイドが数多くの写真館で撮影され、世に出回ったこと、やや遡れば、カメラオブスキュラの運用そのものが絵画における立体感を補助する機械であったことからも明白である。元来人間は、写真に「こうあってほしい」ことを願い続けてきた。と同時に欲望を満たす構造は機械技術の革新という形で昇華し、その副産物たる製品を我々に供給してきたわけである。ここに写真産業という巨大な市場が完成した。
技術の進歩(=カメラの機械的技術革新であったり新感光材の開発であったり)は、欲望を原動力に日々生まれ変わり、新たな表現形式を写真家に提供する代償を、膨れ上がる市場経済の中に還元した。周知の通りこの状況はデジタル時代を迎えてもなお変わることなく、むしろそのスピードを増し、規模を拡大した。
しかして、写真が表現を口にするとき、その隣にはいつも貨幣経済がいたと言えよう。すべからく市場主義に編入される世界の中にあって、何も写真だけが特別な存在なのではない。しかし、絵画や音楽に比べれば圧倒的に、その成立段階から、あるいは発生段階から経済との結びつきを強めていたという点においてはやや特殊かもしれない……
ほぼ同時期の別のメモには次のように書いていた。
……私は長い間、強い違和感を覚えてきた。日本の写真文化を語る上で、カメラ雑誌が写真雑誌に比べて圧倒的に多い状況に、何かいやったらしい空気を吸い込むような気がしてならなかった。技術は進歩したはずだ。それと同義のように市場も飽和したはずだ。2000年代の初頭には世界を認識する術とうそぶいて、自称「女の子」たちに半径3メートル圏内のキッチュを大量に生産させたはずだ。人々はカラーコピー機でポートフォリオを気軽に作成できる方法を覚えたはずだ。インターネットが普及する頃には世界を相手にいわゆる「個の表出」が可能になったはずだ。それにも関わらず、写真家の発表の場は依然内向きである。私にとっては実にいやったらしい空気に思われた……
2013年が始まり、私は大学時代からの友人カンちゃんと後輩で松山のデザイナー塩見敏弘君に相談を持ちかけることにした。
① 新たな写真の発表媒体を作ること。
② それは旧来から行われているものと形式的には何ら変わらないものであること。
③ 形式は極力簡素にし、言葉をなるべく使わないようにすること。
④ スポンサーにたよらず、経済の流れと出来るだけ関わり合いを持たずにすむ方法であること。
どれくらい話し合ったかは忘れてしまったが、割と長い時間をかけたように思う。以上の4つの要素を満たす方法は手弁当で発行する同人雑誌が適しているのではないかと結論付けた。「できるだけ若手が集るような媒体にしたいね」と、写真という霧が立ちこめる小さな丘からあげる烽火(のろし)を意識し、表題をフランス語(写真の発祥地!)で「fusée」(フュゼ)と決めた。当初は季刊と考えていたが、年1回の発行と、その間を埋めるように「mol」(=分子)を散りばめる手法に転化し現在に至る。
同人誌の発行に際し、先人たちが到達した暗闇についてまったく留意しなかったわけではない。無論、写真同人誌「プロボーク」がわずか数刊で廃刊したことを念頭に入れなかったわけではない。
プロボークは1968~70年に発行された写真同人誌で、中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦といた正に時代の寵児が始め、2号から森山大道も参加している。「アレ、ブレ、ボケ」の三拍子揃ったコンポラ写真の見本雑誌であったし、本人たちが自覚していたようにあくまで「挑発的資料」の役割は果たしていた。が、短命に終わった企画には違いない。中平はこの雑誌の総括として自著「なぜ植物図鑑か」(1973、晶文社)で【…】「多分、私は二度と写真による同人誌などには参加しないだろう。そうすることによって生じるある種の自己満足などはしょせんドラスティックな現実からの逃亡をしか意味しないだろう、また私が出張するみずからの生の記録としての写真も一度マス・メディアを通した時、それは私の生の直接性からは遠くへだたった制度的な視覚の中に、その一つとしてまたたく間に翻訳されていってしまうのだ。」【…】と自戒の念を連ねている。中平の自弁については別の機会に考察するにせよ、この言説は一つの到達点であった。
確かに、方向性の異なる写真家が大雑把に同軸上の思想の下で発表形式にのみ縛られるのであれば、縛り上げた横からほころび始めるのは避けようもない。そういった意味でもプロボークは恐ろしく律儀で、同時に恐ろしく無責任な媒体でもあった。
しかし、20世紀末から21世紀初頭にかけての混沌とした写真表現を嫌というほど肌で感じている私たちは、中平が言うような「作品とはしょせん創り終えた時からおれの手を離れてまったく別の生き物だと言いきることによって、あるいはつながるかもしれぬ不確かなコミュニケーションの蓋然性にまかせる姿勢はあまりにも楽天的過ぎることである」(同)との指摘を直視しようと思う。
すなはち、写真は創作ではないこと、言葉のあらゆる束縛が写真の中に作り出す文脈への決闘を申し込むこと、解釈という名のご都合主義的なコミュニケーションに甘んじぬことを肝に銘じ、一瞬の知覚と素肌を振るわせる生の揺らぎを求めようと思う。
私たちは烽火をあげることにした。丘の上から烽火をあげる。他の丘から返答の烽火があがるまで、細く長くのびる煙を絶やすことのないように。
(2016.2.13)
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