蟲日記 長い旅路-その1
魔の交差点。写真家はいつしか自分の中で、一見なんの変哲もない国道交差点をそう呼んでいた。午後8時を少し過ぎた頃だったか。長年付き合いのある篆刻家からの急の呼び出しに応召し、師走の寒道、翁邸を目指して蟲を駆った。さすがはドクターズ・カーと呼ばれただけあって、寒日夜間でも一発始動。4年前に乗っていた、毎度チョークを引っ張らなければならないミニとは違い、オートチョークの恩恵を感じる。しかし、気のせいだと何度も思いたくなるほど、その夜は嫌な予感がしていた。
第六感といえば大仰そのものだが、直感的な、なにか嫌ったらしい空気が流れている。写真家は日ごろからその嫌ったらしい空気を察知することだけは、他にも勝る鋭さを持っていた。その直感が働いてか、できすぎた偶然なのかは分からないが、命に関わるほどの事柄には結果的に無縁といえた。できるだけ気分が乗らないときには動かないように努めてきたからである。
しかし、その夜だけはそうはいかなかった。4日後に迫った作品展の出品作品数が足りず急に件の翁と落ち合って協議する必要がでてきた。
対向車線からのハイビームが眼に触る。焦ることもない、いつもの道ではあったが、はやく用事を済ませようと逸った。アクセルペダルを少しだけ踏み込み、クラッチを切る。4速に入れてクラッチを戻した瞬間、ドーン! といういままで聞いたこともない爆発音が耳をつんざいた。一刹那、後部から大きなものが追突してきたかのような衝撃が背中に伝わった。交差点。衝突事故に巻き込まれたかとバックミラーに眼をやるも、写真家の車しかいない。アクセルを踏み込むと、ズズズズズズズブブブブズズズズブーブーン……とドグラ・マグラさながらの妙に引きずるような音をともなって、車体が前後に振動し始めた。ノッキングを起こしている。クラッチ合わせが悪かったのかと3速に落とすと振動も異音も鳴り止んだ。
黄……赤。一時停止の遥か前からブレーキをかけ始める。ボボボボボボボ……ボボ……。ニュートラルに戻してはいるが、いつもより早いスピードで回転数が減退しているのが分かる。停止線を前に、蟲特有の空冷エンジン音も完全に沈黙した。
写真家はとっさにキーを捻ってエンジンをかけなおし、吹かし気味にハンドルを切る。計器にわずか警告ランプが点いたのを見逃さなかった。エンジンオイルが少なくなってきている。なおも吹かしながら2速で走行し、最寄りのガソリンスタンドに飛び込んだ。
「たぶん、オイルが無くなっているんだと思うんですが、できるだけ硬いのもらえませんか?」……たぶんアルバイト店員なのだろう。きょとんとした様子で「うちではちょっと……壊れたら賠償とかできないですし……そもそもこれ、どこからオイル入れるんですか?」
写真家は電話帳と自らの記憶をたどり、数年前に駆け込んだ主治医の店を思い出した。もう営業時間を過ぎていてもおかしくない時間だ。電話をかける手に汗が滲む。
「大丈夫ですよ! いまから持ってこれますか? 駄目だったらレッカーで行きますよ!」やけに高揚とした声が耳元に広がった……………………。
あれから数時間。意気揚々と作業の手を緩めない主治医の後ろを丁稚小僧のごとく追いかけ廻すも、ひらりひらりとかわされるように根本的な問題にたどり着けずにいる自分の無知を悲観するしかなかった。スパークプラグを入れ替え、オイルをだぷだぷと注ぎ、キャブレターのノブを人差し指と中指で引っ張ってはビスを廻していることだけが確認できる。何をしているのかまったく分からない。そのときだった。
「よし! 今日はこんなもんでしょう」
どうやら終わったようだ。ほっとする写真家を一瞥した主治医曰く、「あくまで応急処置です。なにも直っちゃいません。しばらくしたらまた同じようなことが起こります」。恐ろしいことを平然とした様子で言い放つメカニックに狂気めいた異彩を禁じえずにはいられなかった。
「それに、今日は遅くなってお待たせしてしまいましたから、また都合の良い日にお越しください。できれば早いうちに見させていただければきちんと説明して可能な範囲で修理します。あとは、ぼったくりじゃないかってくらいの治療費を請求します。よおくお考えください」。そこにはブラックジャックがいた。
その日の修理費は5千円ほど。高額治療費の手付金にしては安すぎるし、なにせ閉店時間を遥かに過ぎた対応としては「大丈夫か」と不安にさせるほどだ。ありあまる技術と良心とが信頼を呼ぶ好例をまざまざと見せつけられてしまった。大遅刻となったが、予定も無事にこなせた。もしあのとき電話が通じなかったらと身震いする。
数日後、主治医の予言は的中した。それも、蟲が沈黙した魔の交差点を前にして。偉大なる預言者は人々をひれ伏させる力を持つというが、まさか身近に経験するとは思ってもみなかった。写真家の自動車が故障するときは、いつも最悪のときに訪れる。よりによって結婚式の打ち合わせに式場へ向かう途中だった。
後方より容赦なく浴びせられる罵倒のクラクションを背に、羞恥に耐えながら路肩へ車体を押す。うんともすんとも言わない。最中、主治医の声が脳裏をかすめた。
「また都合の良い日にお越しください」(つづく)
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