うしくんの重力検査
吾輩はうしくんである。吾輩の日常は他から見れば呑気そのものであろうが、実際のところは、何かとするべき事が多く忙しい。これは吾輩の主人でさえ疑いの眼を向ける所であるが、高尚な吾輩の仕事は主人には一生わかるまい。
日々の仕事は、食う寝る遊ぶを基軸に、主人の細君がばたばたしている洗濯物に異常がないか調べる「洗濯物検査」や、主人の食っている物が適切かどうか調べる「食卓検査」など多岐に渡る。たいていはさほど力を使わずに済むものばかりだが、その中のひとつ「重力検査」にはしばしば時間と労力がかかる。これは高さのある場所から物を床へ落としてみることで、かのアイザック・ニュートン氏が閃いた重力が正しく作用しているか調べる大切な検査である。重力がある日突然なくなってしまっては一大事なので、不定期に吾輩の思い立った時にこの検査は行われる。床へ落とす物は主人のペン、携帯電話、手帳、手荒れ用軟膏の容れ物など、重たいものは吾輩の肉球でもって何度か押し出してようやく机からすべり落とすのでなかなか難儀である。たまに主人の飲みかけのコップを落とすと、床一面に中身がぶちまかれ、それで主人に叱責されることもあるが、重力の有無を調べるにあたって拘泥する必要のない塵ほどの犠牲ではないかと不思議に思う。
ある日思い立った我輩は件の重力検査を始めた。その時はちょうど主人が炊事場でいつもの酢の匂いを撒き散らしてバシャバシャやっている所であった。検査中は邪魔がないほうが有り難いのでこれ幸いと机へ跳び上がり、置かれている物を確認した。それは普段目にしない、銀色の大きな筒型の容れ物であった。黒い蓋がついており、肉球で触れると少々重たい物だとわかった。前足で払うように机上をすべらせると、容れ物は少しずつ動いて、とうとう机のふちまで移動し、床へ向けてゆっくりその体を傾けた。瞬間、事態に気づいた主人が聞いたことも無いような悲鳴をあげた。それはまるで我が子が谷へ突き落とされるのを今知ったかのような絶叫であった。派手な音を立てて容れ物が落ちた。主人は飛んできて手を差し出したようだったが、無残に蓋は取れて、中身が露出していた。驚いた細君が何事かと駆けつけたら、「ぜんぶ感光してしまってパァだ」と怒気のにじむ声で主人が顛末を話した。吾輩はコップをぶちまけた時のごとく叱責の手が伸びてくることを予期し、とっさに頭を低くして身構えたが、意外にも主人はさっと冷静に戻り、容れ物の中身を何の感情も込めない手つきで処分しただけだった。日に晒された中身は、黒く細長い紙のような物だった。
吾輩の主人は炊事場に立ってバシャバシャやるとき、並々ならぬ気配で居る。谷の底で死んだ我が子をこれ以上悲しんでも生き返らない事を知って冷淡に屑入れへ捨てるほど、鬼の精神で酢の匂いに向き合っている。吾輩は主人の手の中で何が出来上がっているのか知らない。それでも野生の吾輩は、同じく主人の人間に珍しい野生を見ただけで、酢の匂いのしている内は重力検査は止しておこうと思った。
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