うしくんは偉い

 吾輩はうしくんである。今日の吾輩はたいへんに偉い。どうして偉いのかというと、主人がいつものように酢の匂いをさせてバシャバシャやり始めたので、いつも以上におとなしくして居るのだ。

 これは野生動物である吾輩たちにとって、たいへんに殊勝な態度である。日々本能のままに暮らしている吾輩は腹が空けば餌皿に顔をつっこむし、眠くなればなるべくフワフワとしている場所を選んで伸びて眠る(寒いことがないので、丸まらなくてよいのだ)。そういう生活をしている吾輩が、いつもの酢の匂いを嗅いだだけで行動を一部自粛しているのだから、理性をもった人間が同じことをする以上にこの賢さを褒めてもらいたいのである。

 とは言ったものの、吾輩もなんの経験もなしにこの殊勝な心がけが出来たのではない。記憶にすりこまれた恐ろしい経験が、生きるための身のこなしを導くのである。生きるための身のこなし、つまり酢の匂いがしている間は重力検査およびその他の派手な行動を控えるということだ。これをやらかして以前主人の怒号を聞いた。あの時は今のように気を引き締めておらず、全体に緩んだ心持ちで炊事場に立つ主人の気を引こうとしていた。しかし吾輩は恐ろしいことに関してはよく神経が動く。あれ以来、酢の匂いを感知すれば主人から少し距離を置いた風呂場の陰などからそっと見守ることにしている。

 今日は酢の匂いの中で主人の細君が寝ていたので、その寝顔を定期的に見守り、細君が途中で目を覚ませばこれも遠巻きに視線を合わせて吾輩の存在を無音の内にアピールするなどした。どれもニャとも鳴かずに遂行したのだから頭をなでてもらっても余るくらいだ。細君は主人の横をすり抜けてひとりで入浴を始めた。吾輩は偉いので、細君が無事入浴を済ませて出てくるのを風呂場の戸の前でおとなしく注意深く待った。しばらくして細君が湯気とともに顔を出したので、少々気が緩み、普段は滅多にやらないが細君の部屋履きの端を噛み、前脚と後ろ脚で固定したり蹴ったりしてごまかした。細君は吾輩の慎重にしているのを感じ取ったらしい。吾輩を「ばっちいからね」と制しつつ、吹き出している。

 この家の中で番付をするなら吾輩が一番だと信じて疑わないのであるが、時として、酢の匂いがする時だけ、吾輩はどうしても恐怖から身をひるがえすべく、主人より格下のように神経をはりめぐらせてしまう。そのことが細君に筒抜けで少々恥ずかしく感じても吾輩は慎重に酢の匂いが過ぎ去るのを待つほかない。その匂いは、野良猫がやむを得ず雨をしのぐと同じ、避けて通れぬこの家の畏怖である。

Colline de brouillard 霧の丘

写真家・伊豆野 眸の公式サイト

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