蟲日記 序章ーその1
「ものすっごくオイリーですね!」
蟲の下に潜り込んでいた主治医が叫ぶように言い放った。時折エンジン音で言葉の端が掻き消されるが、問題点の全容は聞き取れる。年齢の分からない白髪にBOSHのメカニカルジャンパー、節立った指からは、もう何台もの蟲を手術台の上でさばいてきた様子がわかる。
ボボボボボ……ボボボズズズボボ……
蟲の尾に付いた1200ccD型エンジンから流れて来る咳込んだような異音混じりのアイドリング音が耳を突く。
「ダメですか?」つい半年前に購入したばかりの中古車の行末。顔に不安の色を隠せずにいる。無理もない。購入時、「一応の点検」と言われ知人の自動車屋から3ヵ月経っても手元に来ることのなかった機体であった。しびれを切らし半ば奪い取るように持ち帰ったが、老メカニックから一言、「エンジンの調子は悪くないんですがね」。安かろう悪かろうとは言うが、どのくらいのものか一切分からず仕舞いで納車となった。分かっているのは、1975年西ドイツ製、フォルクスワーゲンtype1、1200ccスタンダード、D型という車検証に書いてある文字情報だけである。
ボボンボボン……。バス…。「あ、止まった」。今の自動車では考えられない状況が眼の前で起きていた。
交差点でアイドリングしなくなる。三速から二速に落とす際にギヤアと鳴く。坂を登ればノッキングを起し、後部から他の車に追突されたような衝撃が来る。スピードを落とすとエンジンが止まる。フューエルタンクをガソリンで満タンにしても、メーターが3/4ほどしか指さない。ハザードランプが付かない。カーラジオがつかない(CMコンポなんてない!)。と、挙げれば切りがない。
主治医とともにエンジンルームに目を配らせるがその実、ほとんど何をチェックしているのかすら分かっていない。それほどの素人である。
クラシックカーと言えば聞こえは良いが、「40年落ちの輸入車」と言えば、それも納得してしまえる。何年落ちと、クラシックカーとの呼び名の境い目ははっきりとしていないことが良く分かる。
主治医がラチェットレンチをガリガリ廻して黒いエンジンの端から瞬く間に四本のドリルの先っぽみたいな白色の部品を取り出した。接続部と思しきネジ。その中心部が黒く焼けている。「火の飛び方がおかしいんでね。見てもらえれば分かりますが、四気筒車なのに、一つ死んでますね。いま、三気筒です。」とても面白いことのようだが、何を言っているのか分からない。「あとね、番号がちがいますね」と。どうやらスパークプラグと呼ばれる点火部品の不調という意味らしい。「これね、私たちはベスパに使うやつが入ってるんですよ、いま。」ベスパ!? 耳を疑うとはこのことだ。普通車の部品が50ccスクーターで代用できるものなのか、目の前が暗くなりそうだった。主治医はなおも傷口をえぐりに来る。「そりゃあ火は飛びますがね。異常ですよ。少し見ただけで、やっつけ仕事、到底玄人が触ったとは思えませんね。何となくエンジンを始動させるのに成功したレベルです。」とても嬉しそうに話す。いま、主治医の眼前には、格好の被験体が止まっているのだろう。「色々間違った修理をしちゃってますね! ええ、どこから触ればいいのか分からない!」尚も嬉しげである。一瞬ゴミ山かと疑いたくなる作業部屋で主治医は、ダンボールを引っ掻き廻しながら「正しい番号」のプラグを四本出してきて手際良く収めた。鍵を廻すと、蟲に火が付く。プオオオ……ドルン…ボボボボボ…………。
今度はすぐにエンジンを止め、工場の方へと消える。作業部屋の奥とつながっている広々とした工場。何台ものクラシックカーが並ぶ。ポルシェ911、MG、スバル360、ルノー4、シトロエン……。どれも修理中だ。
暫くして、主治医はポットに粘度の高そうなオイルを入れて揚々と戻ってきた。
「納車半年ですよ?まだ指定された走行距離に達していないんですが。」そう訴える私を見返しながら、にこりと「もうその数値意味ないですよ!ほとんど抜けてますから!」よくもこれまで走れたものだ。写真家は黒光りする蟲の尾を眺めているしかなかった。(つづく)
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